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萬田久子さんの実家は大阪市大正区にあります。
ファミリーヒストリーで明かされた愛媛県からの移住の歴史や、精肉店という噂の真相も気になるところです。
この記事では、萬田久子さんの実家の場所や家族構成、両親のエピソードについて詳しく解説します。
目次
萬田久子の実家は大阪市大正区|愛媛ルーツと精肉店の噂の真相
萬田久子さんの実家にまつわる情報を、ルーツから順に整理していきます。
- 実家のある大正区の特徴
- 愛媛から大阪への移住の経緯
- 精肉店の噂と実際の家業
- 家族構成と弟・拓也の存在
実家のある大正区の特徴
萬田久子さんは1958年、大阪府大阪市大正区で生まれました。
大正区は大阪市の南西部に位置する工業地帯で、古くから造船業や製造業が盛んな地域です。
また、大正区は沖縄県からの移住者が多いことでも知られており、「リトル沖縄」と呼ばれることもあります。多様な文化が混ざり合う、下町らしい活気のある街です。
萬田久子さんの学歴を見ると、地元の泉尾東小学校から大正中央中学校へ進み、大阪府立港高校を経て帝塚山短期大学へ進学しています。
小学校から中学校まで大正区内の学校に通っていたことから、実家は大正区の中でも泉尾エリア周辺にあったと考えられます。
愛媛から大阪への移住の経緯
萬田久子さんの実家は大阪にありますが、萬田家のルーツは大阪ではありません。
NHKの「ファミリーヒストリー」で明かされた調査によると、萬田家の先祖は愛媛県川之石(現在の八幡浜市)にルーツがあります。
以下でその歴史を詳しく見ていきます。
曽祖父の海難事故と一家の苦難
川之石は漁業が盛んな町で、萬田久子さんの曽祖父も漁師をしていました。
しかし明治42年、曽祖父は海難事故に遭い、命を落としてしまいます。
一家の働き手を突然失った萬田家は、大きな苦難に直面することになりました。残された家族は生活の立て直しを迫られ、とても厳しい状況に追い込まれたといいます。
祖父・要蔵が大阪で印刷業を開業
そんな苦しい境遇のもと、萬田久子さんの祖父・萬田要蔵さんは萬田家唯一の男子として責任感を持ち、一家を支える決意をしました。
要蔵さんは大阪に出て印刷工場で働き始めます。
やがて結婚し、子宝にも恵まれた要蔵さんは、独立して「勝栄堂印刷所」を開業するまでになりました。
愛媛の漁村から大阪へ出てきた青年が、自力で事業を興したのです。
しかし太平洋戦争へと向かう暗い時代の中で、印刷業界の統合が進められ、ついには戦災で工場が消失してしまいます。そして戦後まもなく、要蔵さんは亡くなってしまいました。
萬田久子さん自身も、祖父が印刷工場を営んでいたことは知っていたものの、それ以前の愛媛でのルーツについてはまったく知らなかったそうで、番組の取材結果にとても驚かれていました。
精肉店の噂と実際の家業
萬田久子さんの実家が精肉店を営んでいるという噂がインターネット上で広まっています。
具体的には、大阪府松原市にある精肉卸業「肉のマンタ」が萬田さんの実家ではないかという説や、大正区にある「萬田精肉店」と関連があるのではないかという話が出回っています。
しかし、この噂は事実ではないと考えられます。
萬田久子さん自身がインタビューで父親の職業を「サラリーマン」と答えていることや、NHKの「ファミリーヒストリー」でも精肉店に関する情報は一切出てこなかったことがその根拠です。
「萬田」という珍しい苗字と大正区という同じ地域に精肉店が存在したことから、混同が生まれたと見るのが自然でしょう。
家族構成と弟・拓也の存在
萬田久子さんの実家の家族構成は、父・母・萬田久子さん・弟の4人家族でした。
弟の拓也さんは昭和39年(1964年)生まれで、萬田久子さんとは6歳差の年の離れた兄弟です。
拓也さんは一般の方のため詳しい情報は公開されていませんが、萬田久子さんのことを「チャコちゃん」という愛称で呼んでいるそうです。
萬田久子さんが芸能界で活躍する一方、弟の拓也さんは一般人として生活しており、表舞台に出ることはほとんどありません。それでも姉弟の仲は良好で、家族の絆は今も続いているようです。
萬田久子の実家を育んだ両親の物語|父の急逝と母が遺したミシン
ここからは、萬田久子さんの実家を支えた両親について詳しく見ていきます。
- 父・榮久の仕事と結婚の経緯
- ミスユニバース直後の父の急逝
- 母・孝子と洋裁の原点
- 天然で愛された「大阪のおばちゃん」
- 歯の矯正と嫁入り道具の奇縁
- 母が遺したミシンと命日の偶然
- 萬田久子の実家と家族まとめ
父・榮久の仕事と結婚の経緯
萬田久子さんの父親は萬田榮久さんといいます。
昭和32年(1957年)、当時29歳だった榮久さんは25歳の孝子さんとお見合いで結婚しました。
榮久さんは若い頃から働き者で、25歳で車を購入し、酒の配達をする仕事をしながらコツコツとお金を貯めていたそうです。そして祖父・要蔵さんが営んでいた印刷業「勝栄堂印刷所」を復活させることに成功しました。
その後、萬田久子さんの弟が生まれると、さらに収入を増やすために酒の配達を辞め、中央卸売市場での運送業を始めています。
家族のために転職を重ねながら、常に家計を支え続けた父親でした。
ミスユニバース直後の父の急逝
1978年、萬田久子さんは短大1年生の19歳でミス・ユニバース日本代表に選ばれます。
しかし、その栄光からわずか2か月後に悲劇が訪れました。父・榮久さんが突然倒れ、享年50歳で亡くなったのです。
娘の晴れ舞台を見届けた直後の急逝でした。
母・孝子さんは「今年は当たり年や」と気丈に振る舞い、メソメソすることはなかったといいます。娘がミスユニバース代表になり、何かの福引で1等を当て、そして夫を亡くすという激動の年を、孝子さんは持ち前の明るさで乗り越えました。
母・孝子と洋裁の原点
萬田久子さんの母親は萬田孝子さん(旧姓:奥地)です。
孝子さんは大阪市大正区で、材木屋に勤務する奥地保市さん・きりさん夫妻の三女として生まれました。
戦時中に母・きりさんの故郷である三重県井田村へ疎開し、終戦後も井田村で暮らしました。井田村は和歌山県との県境にあったため、孝子さんは和歌山県新宮市にある女学校に進学します。
新宮市は和歌山のファッション文化の中心地でした。もともと高身長でスタイルが良かった孝子さんは、ここでおしゃれに目覚めていきます。
洋裁学校へ進学し、その後は新宮市の仕立て屋で働き始めました。きっかけは映画「ローマの休日」の主演女優オードリー・ヘプバーンと同じ服を着たかったからだったそうです。
結婚後は家計を助けるために、近所の人たちから注文を受けて洋裁の仕事を続けていました。
萬田久子さんが子どもの頃に着ていた洋服は、すべて母の手作りだったといいます。
天然で愛された「大阪のおばちゃん」
母・孝子さんは明るくて楽天的な性格で、典型的な「大阪のおばちゃん」だったそうです。
天然なところがあり、周囲から愛されるキャラクターでした。自宅にはしょっちゅう人が集まる賑やかな萬田家だったといいます。
そんな孝子さんの天然ぶりを象徴するエピソードがあります。
ミス・ユニバースの大会当日、孝子さんはリハーサルで準ミスに選ばれた場合の動きを確認している萬田久子さんを見て、娘が準ミスになると勘違いしてしまいました。
近くの公衆電話から「久子が準ミスになったで!」と親戚中に連絡してしまったのです。
本番で準ミスに萬田久子さんの名前が入っていないことが分かると、孝子さんは「みんなにうそをついてしまい、もう家に帰れない…」とがっかり。しかし数分後に「日本代表は萬田久子さん」と発表されると、本来なら腰を抜かして喜ぶところを「これで家に帰れる」とホッとしたそうです。
歯の矯正と嫁入り道具の奇縁
萬田久子さんの人生を大きく変えた出来事のひとつに、小学生時代の歯の矯正があります。
歯医者の名言と矯正の決断
小学校の歯科検診で、担当した歯科医師から「この出っ歯は矯正したほうがいい」とアドバイスを受けました。
萬田久子さん自身は気にしていなかったものの、当時の歯の矯正は非常に高額で、実家の家計では難しいと思われました。
するとその歯医者さんが「将来、嫁入り道具を買ってやるつもりなら、そのお金で代わりに歯を治しておいてあげなさい」と母親に伝えたそうです。
この一言がきっかけとなり、萬田久子さんの歯の矯正が始まりました。
ミスユニバースの副賞で嫁入り道具が
その後、萬田久子さんは19歳でミス・ユニバース日本代表に選ばれます。
ミス・ユニバースでは歯並びが審査の重要なポイントで、八重歯があるだけでも不利になるほどです。小学生のときに矯正していなければ、日本代表には選ばれていなかったかもしれません。
さらに驚くべきことに、ミス・ユニバースの副賞には嫁入り道具一式が含まれていました。
「嫁入り道具の代わりに」と矯正した歯が、回り回って本当の嫁入り道具となって返ってきたのです。萬田久子さん自身も「面白いですよね」と、この不思議な縁を振り返っています。
ちなみにその嫁入り道具の桐のタンス三点セットは大阪の実家に置かれたままで、萬田久子さんがいつまでも使わないため、結局母・孝子さんが使っていたそうです。
母が遺したミシンと命日の偶然
母・孝子さんは2005年、肺の病気により73歳で亡くなりました。
孝子さんの命日は4月13日。実はこの日は萬田久子さんの誕生日でもあります。
萬田久子さんは「亡くなって何年にもなりますが、今も母のありがたみを感じています」と語っています。
母が亡くなった後、住んでいた実家の処分が決まると、萬田久子さんは思い出の品として母が愛用していた足踏みミシンと裁縫箱を自宅に持ってきました。
「いつか、このミシンで洋服を作れたらいいなと思っています」と話す萬田久子さん。母が毎日ミシンを踏んでいた姿は、今も心の中に鮮やかに残っているのでしょう。
また、3歳のときに母に初めて買ってもらったバービー人形は、自宅の人形コーナーの真ん中に今でも大切に飾られています。
萬田久子の実家と家族まとめ
- 実家は大阪市大正区にあり、萬田家のルーツは愛媛県八幡浜市(川之石)の漁師の家系
- 祖父・要蔵さんが大阪で「勝栄堂印刷所」を開業したが、戦災で消失
- 精肉店の噂は事実ではなく、苗字と地域の偶然の一致が原因
- 家族構成は父・母・萬田久子さん・弟の4人家族
- 父・榮久さんはミスユニバース代表選出の2か月後に急逝(享年50歳)
- 母・孝子さんは洋裁の腕を持つ「大阪のおばちゃん」で、2005年に他界
- 歯の矯正がミスユニバース日本代表への道を開いた
萬田久子さんの実家は決して裕福ではありませんでしたが、働き者の父と洋裁の腕を持つ母に支えられた温かい家庭でした。愛媛から大阪へと渡った萬田家の歴史は、まさに家族の絆で紡がれた物語といえます。

