三國連太郎の娘・深幸は30代でがん死!父が語れなかった壮絶な理由とは?

三國連太郎の娘・深幸は30代でがん死!父が語れなかった壮絶な理由とは?

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三國連太郎に娘がいたことを、ご存知でしょうか。

昭和の大俳優として数々の名作を残した三國連太郎ですが、息子・佐藤浩市との確執は広く語られる一方で、娘たちの存在はほとんど知られていません。

この記事では、三國連太郎の娘たちの生涯と、父が生涯語ろうとしなかった理由について詳しく解説します。

三國連太郎の娘は何人か?4度の結婚と子供たちの真相

三國連太郎の家族関係は、4度の結婚を重ねた波乱の人生とともに、非常に複雑に入り組んでいます。

  • 子供の数と複雑な家族構成
  • 最初に生まれた娘の悲しい運命
  • 父に会えないまま逝った30代の娘
  • 3度目の結婚で生まれた子供たち

子供の数と複雑な家族構成

三國連太郎の生涯には、4度の結婚と複数の子供たちの存在が記録されています。確実に確認されているだけでも娘が2人と息子が1人。さらに存在が疑われる子供もいます。各結婚ごとに生まれた子供たちを順に見ていきましょう。

1941年、最初の妻との間に生まれた子

戸籍の記録によると、三國連太郎(本名・佐藤政雄)は1941年(昭和16年)に5歳年上の女性と結婚し、長女・伊都子が生まれています。しかし伊都子は数え年2歳という幼さで亡くなりました

この事実は長年秘められており、息子・佐藤浩市でさえ2025年のNHK「ファミリーヒストリー」で初めて知ることになります。沼津市内の寺で見つかった墓石がその証でした。

終戦後の偽装結婚と娘・深幸の誕生

太平洋戦争の終戦後、中国の収容所から帰国する際に三國は偽装結婚を行います。「妻帯者は引き揚げ船に優先的に乗れる」という内規を利用し、宮崎出身の豊美という女性と結婚届を出したのです。

帰国後は宮崎の彼女の実家で暮らし、1947年(昭和22年)12月に娘・深幸が生まれました。しかし三國は深幸が生まれてわずか1年ほどで家を出ていきます。豊美はその後も三國への恨み言をひと言も口にしなかったといわれています。

3度目の結婚、石原とし子との子どもたち

鳥取・倉吉での生活を経て俳優デビューを果たした三國は、1957年(昭和32年)に神楽坂きっての売れっ子芸者だった石原とし子と3度目の結婚をします。

この結婚で生まれたのが、後の俳優・佐藤浩市(1960年生まれ)と、詳細が非公開の次女です。次女は一般人として生涯を送っており、姓や生年月日をはじめ詳しい情報は公開されていません。

最初に生まれた娘の悲しい運命

三國連太郎の生涯の中で、もっとも長く秘められてきた存在が、最初の結婚で生まれた長女・伊都子です。

中学を中退した三國は14歳で中国へ密航し、その後も朝鮮半島を転々としながら各地で働きました。帰国後は故郷・静岡の沼津に戻り、1941年に5歳年上の女性と出会って結婚します。翌年、長女・伊都子が生まれますが、伊都子は数え年2歳で夭折しました。三國が初めて築いた家庭は、こうして短命に終わります。

この事実が広く知られるようになったのは、2025年放送のNHK「ファミリーヒストリー」においてです。番組の調査チームが沼津市内の寺で伊都子の墓石を発見し、その存在を確認しました。墓守をしていた男性は「その存在を公にすることが供養になるんじゃないか」と語ったといいます。

VTRを見終えた浩市は、「大変申し訳ないんですけど、伊都子さんのお話を聞いていなかったので。きょう知れてよかったです」と神妙な面持ちで話しました。父・三國が伊都子について語ったことは、生涯を通じて一度もありませんでした。

三國が幼い娘の死について沈黙を続けた理由は、本人が語ることなく逝ったため今では知る術がありません。ただ、三國は自らの出生についても「私は本当は佐藤じゃない」と妻・友子に打ち明けていたように、家族の複雑な事情を胸の奥にしまい込む習慣のある人物でした。伊都子の存在もまた、語ることで傷が開くと感じていたのかもしれません。

その後、三國は別の女性との間で再び娘を持ちます。しかしその娘もまた、父と満足に会うことのないまま30代でこの世を去るという運命を辿りました。

父に会えないまま逝った30代の娘

三國連太郎の子供たちの中で、もっとも知られていながら謎が多い存在が深幸です。父に会えないまま30代でがんに倒れた娘の人生は、三國の奔放な生き方が生んだ悲劇でもありました。

終戦後の偽装結婚で帰国した三國は、1947年12月に宮崎で深幸をもうけます。しかし父親として子供と接することはほとんどなく、深幸が1歳になる頃には家を出ていきました。豊美との離婚後も深幸は母のもとで育ち、三國とほぼ没交渉のまま成長します。

成長した深幸は、年の離れたカメラマンと結婚し、2人の子供を産みました。三國にとって孫にあたる子供たちです。しかし1980年代前半、深幸は30代半ばでがんに侵され、短い生涯を終えます。

当時、孫たちは小学生と幼稚園児でした。残された夫が手記を書き、ジャーナリストの武藤まき子氏が取材を行っています。武藤氏によると、孫たちは「おじいちゃんに会いたい」と話していたといいます。三國への取材申し込みもありましたが、三國は「語ることは何もない。生きていくということは、とてつもなく大変なこと、人様に語る前に沈黙も大事だ」と話し、心中を明かすことはありませんでした。

深幸の死について三國が公に語ることは、その後も生涯一度もありませんでした。父として娘に向き合わなかった負い目があったのか、それとも言葉にできない痛みだったのか。2013年4月14日に急性心不全で90歳の生涯を閉じるまで、三國は深幸の話題には沈黙を守り続けました。

深幸の存在は、昭和を代表する俳優の影に隠れた家族の記録として残っています。父に一度も会えないまま、子供たちを残して逝った30代の女性の生涯は、三國連太郎という人物の光と影の両面を映し出しています。

3度目の結婚で生まれた子供たち

三國連太郎が3度目の妻に選んだのは、1950年代の神楽坂を代表する芸者・石原とし子(のちの佐藤とし子)です。1952年の映画「戦国無頼」の撮影の合間に出会い、交際を経て1957年(昭和32年)に結婚しました。

とし子との間に生まれたのが佐藤浩市(1960年12月10日生まれ)です。浩市という名は、三國が当時一緒によく仕事をしていた稲垣浩監督と市川崑監督の名前から一字ずつ取ったとされています。

また、浩市の妹にあたる次女も存在しますが、一般人のため姓や生年月日など詳しい情報は一切公表されていません。「娘さんもいらっしゃるそうですが、一般の方のようで詳しいことは分かりませんでした」という証言が残るのみです。

三國は1962年、再び家を出ていきます。当時の浩市はまだ幼く、小学5〜6年のとき両親が正式に離婚したと語っています。1972年(昭和47年)、三國ととし子は正式に離婚しました。

離婚後、とし子はスナックを経営して浩市を育てました。浩市が中学に進むと、内縁の男性が自宅に同居するようになります。思春期の浩市は「この家に自分の居場所はない」と感じ、高校2年で家を飛び出しました。以後、約30年にわたって母子の関係は断絶します。

転機が訪れたのは2008年のことです。とし子が脳梗塞で倒れ、認知症が進行したことがきっかけとなり、浩市は妻・広田亜矢子と相談して母を自宅に引き取って介護することを決めます。3度目の結婚で生まれた子供たちは、それぞれに複雑な家族の事情を抱えながら生きてきたのです。

三國連太郎の娘と息子が背負ったもの──父の愛と不在

子供たちが父・三國連太郎をどう受け止めていたのか、そして三國はどのように子供たちを想っていたのかを見ていきます。

  • 子供に背を向け続けた父の生き方
  • 確執の真相と隠れた愛情
  • 三代にわたる俳優一家の系譜

子供に背を向け続けた父の生き方

三國連太郎は、生涯を通じて「父親」という役割とは距離を置き続けました。4度の結婚ごとに家族のもとを去り、子供たちが父を求めても向き合うことはほとんどありませんでした。

深幸の子供たちが「おじいちゃんに会いたい」と言っていた話も、三國は沈黙という形でやり過ごしました。佐藤浩市もまた、父の不在の中で育ちました。幼い浩市が父に「三國連太郎を辞めちゃえ!」と言い放ったというエピソードが、ファミリーヒストリーで明かされています。

なぜ三國はこれほどまでに家庭から遠ざかり続けたのでしょうか。関係者や研究者の間では、三國自身の出生の複雑な事情や、14歳から始まった放浪の体験、そして戦争体験が、彼の人格形成に深く関わっていると指摘されています。「自由で差別を嫌う」人物として知られ、組織や家庭という枠組みに縛られることへの根本的な抵抗があったとも考えられます。

映画会社からは「犬、猫、三國 入るべからず」と掲げられるほど反骨精神旺盛だった三國。その精神は俳優としての強みである一方、家族との関係においては大きな壁にもなりました。

一方で晩年の三國は、孫・寛一郎を溺愛していたといわれています。孫を抱いた写真には、昭和の大俳優ではなく、「佐藤政雄」としての穏やかな表情が映っています。子供たちには向き合えなかった父が、孫を通じて別の形の愛情を示した晩年でした。

確執の真相と隠れた愛情

三國連太郎と息子・佐藤浩市の確執は、長年メディアで語られてきました。しかし実態は、世間で報じられていたものとは少し異なっていたようです。

「縁を切ろう」と言い放った真意

浩市が俳優の道を志すことを父・三國に報告したとき、三國の答えは「おやりになるなら、親子の縁を切りましょう」というものでした。5歳で父と別れ、母の手ひとつで育ってきた浩市にとって、その言葉は確執をさらに深いものにしました。

1996年の映画「美味しんぼ」では、劇中の親子対立を実際の親子が演じるという皮肉な共演が実現します。製作発表の場で浩市の発言を三國が公然と批判し、撮影中も「すさまじく寡黙」だったと伝えられています。

しかし三國は後に、「縁を切ろう」と言ったことについてこう語っています。「俳優という仕事に対して何かの支えになる自信がなかった」。家族を捨てて去っていった父が、今更何の支えになれるというのか。その思いが、不器用な形で表れた言葉だったとも読み取れます。

誰にも語らなかった父の本音

晩年の三國は、人目のつかない地方の映画館にわざわざ足を運び、浩市の出演作品をすべて観続けていたといいます。息子が知らないところで、父は静かに息子の仕事を見守り続けていました。

映画「美味しんぼ」に共演した女優・羽田美智子は、三國が「ウチは普通の家とは違うので、(息子に対して)不憫なこともあったと思う」と漏らしていたと証言しています。また「緊張感はあれども、愛し合っている親子にしかうつりませんでした」とも語っています。

浩市は三國の死後にこう述べています。「僕がここに立って、やりたいと思える芝居をやれるのは三國連太郎という人がいたから」。和解という形は叶いませんでしたが、父と息子の間には確かな繋がりがありました。

三代にわたる俳優一家の系譜

三國連太郎が残したものは、183本の映画作品だけではありません。息子・佐藤浩市を経て、孫・寛一郎へと俳優の血が受け継がれています。

寛一郎は2017年、映画「ナミヤ雑貨店の奇蹟」で俳優デビューを果たしました。2025年のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」では松野銀二郎役を演じ、若い世代のファンからも注目を集めています。

三國の十三回忌の会で、寛一郎はこう語りました。「三國と親父の会話の独特の緊張感を覚えています。自分が軽々しく言えない存在ですが、尊敬する好きな俳優の1人です。三國に恥ずかしくない作品を残していければと思います」。

かつて三國が戦地から「無駄死にするな、必ず生きて帰ってこい」という父・正の言葉を胸に生き延びたように、浩市は「三國連太郎という人がいたから」と父の存在を語ります。それぞれの世代が前の世代を背負いながら俳優の道を歩んできた一家の物語は、今なお続いています。

佐藤浩市と妻・広田亜矢子は、児童養護施設の子どもたちを預かる短期週末里親「フレンドホーム」の活動も長年続けています。複雑な家族の中で育った浩市だからこそ、施設の子どもたちの気持ちに寄り添える部分があるのかもしれません。

三國連太郎の娘と家族まとめ

  • 三國連太郎には4度の結婚歴があり、確認されている子供は少なくとも3人(長女・伊都子、深幸、佐藤浩市)と、詳細不明の次女を含む
  • 最初の結婚で生まれた長女・伊都子は、数え年2歳で夭折。佐藤浩市も2025年まで存在を知らなかった
  • 2番目の娘・深幸は1947年生まれ。父とほぼ会うことなく、30代半ばでがんにより死去した
  • 石原とし子との間には佐藤浩市と次女が生まれたが、三國は再び家を出ていった
  • 佐藤浩市との確執は広く知られるが、三國は地方の映画館で浩市の全出演作を一人で観続けていた
  • 孫・寛一郎も俳優となり、三代にわたる俳優一家の系譜が続いている

三國連太郎は「父親」として子供たちの前から姿を消し、娘の死にも沈黙を守り続けました。しかし息子の映画をひとりで観続け、晩年には孫を溺愛した姿からは、愛し方が不器用だっただけの一人の人間像が浮かび上がります。

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