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東ちづるさんの実家はどこにあるのか、どんな家庭で育った方なのか、気になって検索された方が多いのではないでしょうか。
先に結論をお伝えすると、実家は広島県の因島。父は造船関係の仕事、母は会社員という共働きの家庭でした。
ただ、その家には「いい子」を求められ続けた娘と、アルコール依存症になった父という、ひと言では片づかない事情もありました。
この記事では、本人が語ってきた事実と、公表されていない部分を分けて整理していきます。
目次
東ちづるの実家は広島県の因島|造船の島で育った家族構成
まずは、実家の場所と家族の顔ぶれから確認していきましょう。
- 実家があるのは瀬戸内の因島
- 父は造船関係・母は会社員
- 二歳下の妹がいる四人家族
- 習い事づけだった子ども時代
- 「一番がいいのよ」の教え
実家があるのは瀬戸内の因島
東ちづるさんの実家は、広島県因島市(現在の尾道市因島)にあります。
生まれたのは1960年6月5日。因島は瀬戸内海の芸予諸島にある面積35平方キロほどの島で、本州側の尾道から南へ17キロほどの位置にあります。今はしまなみ海道で本州とつながっていますが、東さんが子どもだった頃は、渡るのに船が必要な島でした。
地元紙『せとうちタイムズ』は、生まれを因島市土生町(当時)と伝えています。ただし番地や建物までは公表されていませんし、その家が今も残っているのかどうかも明らかにされていません。
土生というのは、この島の造船業が始まった場所です。1896年に土生船渠合資会社が創業し、第一次世界大戦の好景気で一気に規模が広がりました。それまで農業が中心だった島は、職工が集まる「造船の島」へと姿を変えていきます。日立造船因島工場をはじめ、複数の造船所が並ぶ島になりました。
なお旧因島市は、平成の大合併で2006年に尾道市へ編入され、市としては消滅しています。「因島市出身」という表記は、生まれた当時の地名だと考えてください。
先に、分かっていることを一覧にしておきます。
| 実家の場所 | 広島県因島市(現・尾道市因島)。番地・建物は非公表 |
| 生まれた日 | 1960年6月5日 |
| 父 | 造船関係の仕事。のちにアルコール依存症を患い他界 |
| 母 | 会社員。英子さんと紹介されている |
| きょうだい | 2歳下の妹が1人。一般の方で氏名は非公表 |
| 実家の土地柄 | 造船で栄えた瀬戸内の島 |
| 今も実家があるか | 公表されていない |
それでは、家族ひとりずつの話に入っていきます。
父は造船関係・母は会社員
父は造船関係の仕事、母は会社員という共働きの家庭でした。
2017年12月9日に公開された女性自身のインタビュー記事によれば、東さんが生まれたとき両親はどちらも20代。若い夫婦の長女として生まれたことになります。造船の島で父が造船に関わる仕事に就いていたというのは、当時の因島ではごく自然な選択だったのでしょう。
ただし、勤務先の社名までは公表されていません。ネット上では島の大手造船所の名前が結びつけて語られることもありますが、本人も報道も社名を明かしたことはないので、この記事では事実として扱いません。
母について、東さんは繰り返し語っています。『婦人公論』2024年12月号のインタビューでは、母が20代前半で自分を産み、周囲から「子どもが子どもを産んだ」と言われたと明かしました。その言葉をはねかえすように、母は育児書や教育書を何冊も読み込み、「良妻賢母」を目指したといいます。
何より重んじたのは「世間がどう思うか」でした。毎朝、家族が起きる前に化粧を済ませ、身だしなみを整えてから朝ごはんを用意する。弁当も見た目まで完璧に仕上げる。女性自身では「女のたしなみ」として常に薄化粧をし、家族にも素顔を見せないしっかり者だったと紹介されています。
母のすっぴんを見た記憶がない。娘が語る実家の風景として、これはなかなか強烈な一行だと思います。
二歳下の妹がいる四人家族
きょうだいは妹が1人です。年齢差は2つ。芸能活動はしておらず一般の方なので、氏名も職業も公表されていません。
つまり実家は、父・母・東さん・妹の4人家族でした。島の共働き家庭で、姉妹が育っていったという構図になります。
妹も、同じ方針のもとで育てられました。『婦人公論』のインタビューには、母が娘たちだけでなく孫の世代にまで「一番になりなさい」と説いていた場面が出てきます。教育方針は一過性のものではなく、母の生き方そのものだったわけですね。
のちに父が病気になったとき、姉妹は同じ受け止め方をしています。依存症の専門メディア『Addiction Report』(2025年10月17日公開)で、東さんは当時をこう振り返りました。アルコール依存症は「意思が弱い人、ダメな人、恥ずかしいこと」だと思い込んでいた、と。
知識がないまま、姉妹で同じ思い込みを抱えていた。誰かに相談するという発想も出てこなかったといいます。
なお、妹の現在について書いているサイトもありますが、一次情報でたどれる話ではありませんでした。この記事では触れないでおきます。
習い事づけだった子ども時代
実家での子ども時代は、とにかく予定が詰まっていました。
地元紙『せとうちタイムズ』が2002年に伝えた母校・因島高校での講演記事によると、子どもの頃の習い事は日本舞踊、書道、そろばん、オルガン、英会話。中学に上がるとテニス部に入り、生徒会でも活動していました。
成績も飛び抜けています。『婦人公論』では、学校のテストはほぼ毎回100点、毎年学級委員にも選ばれる優等生だったと語られています。高校は広島県立因島高等学校に進みました。
習い事の数だけを見れば、教育に熱心な恵まれた家庭という印象を受けます。実際、経済的に困っていたという話は出てきません。東さん自身も、育った家を「一般的な中流家庭」と表現しています。
ただ、本人はこれらを「自分が選んだもの」としては語っていません。母の期待に応えるための時間でもあった、という文脈で振り返るのが常です。ここが、単なる「習い事が多い家」との違いになります。
「一番がいいのよ」の教え
実家の話をするとき、東さんが必ず触れるのが母の口癖です。
『婦人公論』では「勉強も運動も頑張りなさい」「一番がいいのよ」「愛される人、優しい人になりなさい」。女性自身では「1番がいいのよ。優しい子がいいのよ。ちゃんとしなさい」。日経ウーマンの2023年11月14日公開のインタビューでは「迷惑をかけてはいけません」「優しい子でいなさい」「愛されなさい」。
媒体によって並びは違いますが、伝えている中身は一貫しています。一番であること、優しいこと、そして世間から愛されることを求められ続けました。
子どもは親にほめられたいものです。東さんも、その期待に応えようと努力を重ねていきました。テストで100点を取り、学級委員を務め、習い事もこなす。外から見れば理想的な娘です。
のちに本人は、この構図をこう表現しています。母からの高すぎる要求を「愛」だと勘違いして、「いい子」をずっと演じ続けてきた、と。
実家がどんな家だったかを一行で言うなら、この言葉がいちばん近いのだろうと思います。
東ちづるが語った実家の光と影|父の依存症と母娘のやり直し
ここからは、その家で実際に起きたことを見ていきます。
- 父の依存症で一変した家
- 島だから隠すしかなかった
- 高校三年間の記憶がない理由
- 受験失敗と「裏切った」の一言
- 母娘で受けた九回の面談
- 見ない聞かない知らない関係
- 東ちづるの実家と家族についてまとめ
父の依存症で一変した家
2011年6月10日、シネスイッチ銀座で開かれた映画『光のほうへ』のトークイベントで、東さんは父のことを語りました。シネマトゥデイが当日の発言を伝えています。
もともとは「お酒好きという程度」だった。ところが気づいたときには依存症になっていて、ある日突然、吐血して救急車で運ばれたといいます。
『Addiction Report』では、経過をさらに具体的に語っていました。父がアルコール依存症だったのは、40代の終わりごろから亡くなるまでの約15年間でした。
最期は肝硬変で、60代の前半で世を去っています。当時を振り返って東さんは「出口の見えないトンネルをさまよっているようでした」と表現しました。
幻聴や幻覚もありました。「布団の中に虫がいっぱい入ってる」と怯えたり、自分を責める声が聞こえたり。治療は内科での入退院の繰り返しで、専門的な治療にはたどり着いていません。
医師でさえ「少量のアルコールならいい」と言う時代だったそうです。自助グループの断酒会を紹介されたこともありましたが、「父に行く気になってもらえなかった」と語っています。家族は励まし、なだめ、ときに脅す。東さんはそれを、依存症の家族が陥る「典型的なパターン」だったと振り返りました。
島だから隠すしかなかった
この時期の実家を語るうえで外せないのが、島という土地柄です。
母は、父の状態を外に出さないようにしていました。『Addiction Report』で東さんが挙げた理由は、小さな島では噂話に尾ひれがつくのが怖かった、というものです。世間体を何より重んじてきた母にとって、夫の病気は絶対に知られてはいけないことでした。
東さん自身も同じ気持ちを抱えていました。「アル中という言葉がすごく嫌で恥ずかしかった。まるで父親が弱い人だからお酒に逃げているって思われるんじゃないか……というかわたしがそう思っていました」。トークイベントでの言葉です。
隠し続けた母は、限界に近づいていました。依存症という病気の仕組みを理解できないまま対応を続け、ストレスから自分が摂食障害になっていることにも気づいていなかったといいます。
入退院は当初、島の病院で繰り返されていました。母ひとりに負担をかけるのは危なっかしい。そう考えた東さんは、父を東京に呼び寄せて治療を続けます。実家の機能そのものが、島から移った形になりました。
父が亡くなったあと、東さんは自分が本当の父を知らないままだったことに気づいたそうです。「すごく後悔と懺悔と未練があります」。依存症をめぐる発信を続けている背景には、この思いがあります。
高校三年間の記憶がない理由
父が倒れたことを境に、母の言葉はさらに強くなりました。
「がんばりなさい。しっかりしなさい。ちゃんとしなさい。早くしなさい」。東さんはその期待に応えようと、いっそう「いい子」を続けます。そして、あることに気づきました。
高校3年間の記憶が、ほとんど残っていなかったのです。
気づいたのは芸能界に入ってからでした。2023年9月17日公開の文春オンラインの記事によれば、番組のサプライズで登場した高校の同級生が誰なのか分からず、恩師と勘違いしたことがあったといいます。地方巡業中に楽屋を訪ねてくれた人のことも思い出せませんでした。
「頭の中に霧がかかっているような感じで『受験があったからかな』とか『楽しくなかったんだろうな』と思っていた」。長いあいだ、そう納得させていたそうです。
のちにカウンセラーの長谷川博一さんに「私が弱いから記憶がなくなったんじゃないんですか」と尋ねたところ、返ってきたのは「自分を守るためにそうなったんですね」という言葉でした。解離と呼ばれる状態です。
『Addiction Report』では、その背景に世代の連鎖があったとも語っています。若くして産んだ母には「立派に育てなければ」という呪縛があり、そこには祖母の期待も重なっていた。実家という場所は、母ひとりの問題ではなかったわけですね。
受験失敗と「裏切った」の一言
実家との関係を決定づけた出来事が、大学受験でした。
東さんが目指したのは国立の教育大学です。女性自身によれば、受けたのは広島大学教育学部。結果は不合格でした。
そのとき母が漏らした言葉を、東さんは今も覚えています。声を荒らげたわけではなく、「ボソッと自分自身につぶやくように」だったそうです。
「18年間の期待を裏切ったわねえ」
怒鳴られるより、こたえたと思います。東さんはこの一言を「とてもリアルで」と表現しました。同時に、何かが吹っ切れた瞬間でもあったと語っています。
母からは浪人を勧められました。しかし東さんが選んだのは、大阪の関西外国語大学短期大学部への進学でした。そこで一人暮らしを始めています。
島を出て、実家を出る。生まれ育った家から物理的な距離を取ったのが、この進路選択でした。そこから先の歩みが、母娘の関係を長い時間をかけて変えていくことになります。
母娘で受けた九回の面談
転機が訪れたのは、30代の後半でした。
アダルトチルドレンとして育った女性のエッセイを手に取り、「これ、私だ」と思ったといいます。日経ウーマンや『婦人公論』のインタビューで、繰り返し語られているエピソードです。自分が長年抱えてきた生きづらさは、母からの過剰な期待と精神的な支配が大きな要因だった。そう気づいた瞬間でした。
ここからの行動が、東さんらしいところだと思います。自分だけで解決しようとせず、母を誘ってカウンセリングに向かったのです。
母と本人がそれぞれ3回、合同で3回、計9回のカウンセリングを約半年かけて受けました。
ただし時期については、記述に幅があります。『婦人公論』と日経ウーマンでは受けた時期の書き方が1年ずれていますし、回数を「約10回」としている媒体もあります。おおむね30代の終わりから40代に入るころ、というところまでが確かな線でしょう。
2002年には、担当したカウンセラーの長谷川博一さんとの共著も出ています。『“私”はなぜカウンセリングを受けたのか―「いい人、やめた!」母と娘の挑戦』というタイトルでした。母娘で受けた面談を、そのまま一冊にしたわけです。
見ない聞かない知らない関係
カウンセリングのあと、変わったのは東さんだけではありませんでした。
それまでの母は、何を決めるにも娘に確認していたそうです。喫茶店に入れば注文まで娘と同じものを選ぶ。他人の意見を優先して、自分の本心を抑え込んでいました。それが「自分の意思を口にできるようになりました」と、『婦人公論』の後編で語られています。
変化はやや極端な形でも現れました。股関節の手術を家族に相談せず自分で決めてしまったり、娘の誕生日を忘れたり。かつては誕生日の準備に全力を注ぐ人だったので、これは大きな変化です。東さんはそれを、母の関心がようやく自分自身に向いた証拠として受け止めています。
ふたりが行き着いたのは、お互いの私的な領域について「見ない、聞かない、知らない」を大事にする距離感でした。突き放しているのではなく、依存し合わないための線引きですね。
日経ウーマンのインタビューでは、母との関係を「これまでで一番いい関係」と表現しています。2025年2月12日に放送されたテレビ朝日系『徹子の部屋』の「たくましい母と娘」傑作選にも、母娘のエピソードが取り上げられました。
ちなみに東さんは2003年に堀川恭資さんと結婚しています。実家で身につけた「いい子」を手放したあとに築いた家庭で、夫の闘病を支えてきたことも公にしてきました。
東ちづるの実家と家族についてまとめ
- 東ちづるさんの実家は広島県因島市(現在の尾道市因島)にあり、生まれは1960年6月5日
- 地元紙は生まれを因島市土生町(当時)と伝えているが、番地や建物、現存するかどうかは公表されていない
- 因島は1896年の土生船渠合資会社の創業から発展した造船の島で、旧因島市は2006年に尾道市へ編入された
- 父は造船関係の仕事、母は会社員という共働きの家庭で、両親はともに20代の若い夫婦だった
- 父の勤務先の社名は公表されておらず、島の大手造船所と結びつける説には根拠がない
- きょうだいは2歳下の妹が1人で、一般の方のため氏名や職業は非公表
- 母は「子どもが子どもを産んだ」と言われた反発から育児書を読み込み、「良妻賢母」と世間体を最優先した
- 子どもの頃の習い事は日本舞踊・書道・そろばん・オルガン・英会話で、テストはほぼ毎回100点だった
- 父は40代の終わりごろから約15年アルコール依存症を患い、肝硬変のため60代前半で亡くなっている
- 小さな島で噂を恐れた母は病気を隠し続け、自身も摂食障害になっていることに気づいていなかった
- 東さんは高校3年間の記憶がなく、のちに解離だったと知らされている
- 広島大学教育学部の受験に失敗した際、母から「18年間の期待を裏切ったわねえ」と言われた
- 30代の終わりから40代に入るころに母娘でカウンセリングを受け、計9回・約半年に及んだと語られている
- 現在は「見ない、聞かない、知らない」を大事にする距離感で、「これまでで一番いい関係」と語っている
東ちづるさんの実家を調べていくと、出てくるのは瀬戸内の造船の島と、共働きの4人家族という、どこにでもありそうな輪郭です。豪邸でも名家でもありません。番地や建物といった細かい情報も、公表されたことはありません。
それでも、この家の話が語り継がれているのは、外から見た「立派な家庭」と、中にいた娘が感じていたものが、まるで違っていたからでしょう。テストで100点を取り続けた娘には、高校3年間の記憶がありませんでした。
そして今、母娘は「見ない、聞かない、知らない」という距離を選んで、これまでで一番いい関係にたどり着いています。実家がどんな家だったかという問いへの答えは、その場所や建物より、母娘がここまで歩いてきた道のりのほうに、はっきり残っているのだと思います。

