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澤穂希さんの学歴を調べると、小学校から大学までひととおり名前が出てきます。
ただ、いちばん面白いのは大学の部分です。進学した大学は中退しているのに、いま別の大学で教える側に立っているんです。
教員免許を取るつもりで入って、結局取らずに辞めた人が、後年に大学の教壇へ。そんな流れになっています。
この記事では、学校ごとの歩みを順に整理したうえで、その対比まで見ていきます。
目次
澤穂希の学歴は小学校から帝京大学まで
まずは、学校ごとの経歴を順に確認していきましょう。
- 学歴の全体像を整理
- 小学校でサッカーを始めた
- 中学でベレーザと代表へ
- 高校は都立南野高校
- 帝京大学は中退している
学歴の全体像を整理
最初に、全体を通して見ておきます。
澤穂希さんは地元・東京都府中市の公立校で育ち、大学は中退しています。
特別なスポーツ強豪校に進んだわけではありません。サッカーはクラブチームで続け、学校は地元の公立に通うという形でした。
先に、学校ごとの流れを一覧にしておきます。
| 小学校 | 府中市立若松小学校。2年生でサッカークラブに入団 |
| 中学校 | 府中市立府中第五中学校。1年生で読売ベレーザへ |
| 高校 | 東京都立南野高等学校。卒業している |
| 大学 | 帝京大学教育学部。中退 |
| 中退の背景 | 3年にあたる1999年に渡米し、プロ生活へ |
| 現在 | 京都産業大学 経営学部の特別客員教授 |
並べてみると、学歴とサッカーのキャリアが完全に重なっているのが分かります。順に見ていきましょう。
小学校でサッカーを始めた
出発点は、地元の小学校時代でした。
通っていたのは府中市立若松小学校です。
サッカーを始めたのは2年生のときで、「府ロクサッカークラブ」というクラブに入団しています。学校の部活ではなく、地域のクラブから入った形ですね。
当時の女子サッカーは、いまと環境がまったく違います。女の子がボールを蹴る場所自体が限られていて、男子に混じってプレーするのが普通でした。
そんななかで頭角を現し、6年生のときには読売ベレーザからスカウトを受けています。小学生のうちに、国内トップのクラブから声がかかったわけです。
読売ベレーザは、日本の女子サッカーで最も歴史のあるクラブのひとつです。そこが小学生に目をつけるというのは、相当に光るものがあったということでしょう。
ちなみに府中市は、澤さんが生まれ育った土地でもあります。1978年9月6日にこの街で生まれ、そのまま地元でボールを蹴り始めたことになりますね。
つまり中学に上がる前の時点で、すでに進路は決まっていたことになります。
中学でベレーザと代表へ
中学校は、府中市立府中第五中学校に進みます。
そして1年生のときに、読売ベレーザへ正式に入団しました。
中学1年で社会人チームに入るというのは、いま考えても異例です。本人も当時を振り返って、10歳も20歳も年上の選手たちと一緒にプレーできたことに触れています。
驚くのは、そこでレギュラーを取っていることです。年齢差のあるチームで居場所を作るだけでも大変なのに、試合に出続けていたわけですね。
そして3年生のとき、大きな出来事が2つ重なります。Lリーグのベストイレブンに選ばれ、さらに日本代表にも初めて招集されました。
ベストイレブンというのは、そのシーズンで最も活躍した11人に贈られるものです。社会人リーグの中で、中学生がその枠に入ったことになります。
代表デビューは1993年12月6日、まだ中学生の年齢でのことでした。
高校は都立南野高校
高校は、東京都立南野高等学校に進学しました。
いわゆるサッカーの名門ではなく、地元の都立高校です。当時の偏差値は47ほどだったと紹介されています。
なぜ強豪校を選ばなかったのか。答えは単純で、すでに読売ベレーザという最高の環境にいたからでしょう。学校の部活で強くなる必要がなかったわけですね。
この時期、澤さんはLリーグと日本代表を掛け持ちしています。平日は授業、夜と週末はクラブ、そこに代表招集が入るという生活です。
それでもきちんと卒業しています。学業との両立を投げ出さなかったところに、この人の生真面目さが出ているように思います。
この時期に高校を辞めてサッカーに専念する、という道もあったはずです。実際、競技を優先して学校から離れる選手は珍しくありません。
それをしなかったのは、当時の女子サッカーに「これ一本で生きていける」という保証がなかったからでしょう。競技と学校の両方を手放さない判断が、次の進学にもつながっていきます。
10代のうちから、大人と同じスケジュールで動いていたことになりますね。
帝京大学は中退している
高校卒業後に選んだのは、帝京大学教育学部でした。
進学の目的は、教員免許を取ることだったとされています。
ここが意外に思える部分かもしれません。すでに日本代表の主力だった選手が、教員という別の道も視野に入れていたわけです。
当時の女子サッカーには、プロとして食べていける保証がありませんでした。競技を続けながら資格も取っておく、というのは現実的な判断だったでしょう。
ところが、その計画は途中で変わります。大学3年にあたる1999年、澤さんはアメリカへ渡りました。海外のプロリーグでプレーするためです。
結果として大学は中退となり、教員免許も取得していません。競技を優先した以上、避けられない選択だったと言えそうです。
澤穂希の学歴と現在|教わる側から教える側へ
ここからは、その後の展開を見ていきます。
- 中退から始まった海外挑戦
- 免許は取らずに終わった
- 京都産業大学の客員教授
- 担当科目はスポーツ経営
- 澤穂希の学歴についてまとめ
中退から始まった海外挑戦
大学を離れた1999年から、キャリアは新しい段階に入ります。
渡った先はアメリカで、コロラド・デンバー・ダイヤモンズに加入しました。
いまでこそ女子選手の海外移籍は珍しくありませんが、1990年代の終わりとなると事情がまったく違います。情報も少なく、待遇の保証もありませんでした。
その後もアトランタ・ビート、ワシントン・フリーダムと、合計3度アメリカでプレーしています。日本と行き来しながら、繰り返し環境を変えているんですね。
大学に残っていたら、この経験は積めなかったはずです。中退という言葉には後ろ向きな響きがありますが、この場合は前に進むための選択でした。
そして2011年、日本代表のキャプテンとして世界一にたどり着きます。
免許は取らずに終わった
結果だけ見れば、教員免許は取れていません。
教育学部に進んだのに、資格を得ないまま大学を離れたことになります。
ただ、こう考えることもできます。教える仕事に関心があったからこそ、あの学部を選んだわけですよね。その関心自体は消えていません。
現役を退いたあと、澤さんはサッカーの普及活動に携わるようになりました。子どもたちにボールの蹴り方を伝える側に回っています。
免許という形は取れなかったけれど、人に教えるという方向性はつながっていた。そう見ると、教育学部への進学も無駄ではなかったのでしょう。
もうひとつ考えたいのが、当時の判断の重さです。中退を決めた時点では、アメリカで通用するかどうかも分かりませんでした。
資格を捨てて海を渡るというのは、保険を外す行為でもあります。それでも渡ったからこそ、後のキャリアがあるわけですね。
そして数年後、もっとはっきりした形でその線がつながります。
京都産業大学の客員教授
現在の肩書きを見ると、学歴の話は違う色を帯びてきます。
澤穂希さんは京都産業大学の特別客員教授を務めています。
所属は経営学部のマネジメント学科です。これは大学の公式サイトに掲載されている情報で、推測ではありません。
大学を中退した人が、別の大学で教授として迎えられる。学歴という切り口で見ると、なかなか劇的な展開ですよね。
もちろん、これは学問的な業績で選ばれたポストではありません。競技者として世界の頂点に立ち、その後も競技に関わり続けてきた経験そのものが評価されたのでしょう。
大学側の紹介文にも、代表出場数と得点数が歴代1位であること、2011年のワールドカップでキャプテンとして初優勝に導いたことが並んでいます。
担当科目はスポーツ経営
受け持っている授業も公開されています。
担当科目は「マネジメント特講(スポーツ)」です。
経営学部の科目ですから、プレーの技術を教えるわけではありません。スポーツを事業や組織としてどう動かすか、という視点の講義になります。
これは澤さんにしか話せない領域でもあります。女子サッカーがほとんど注目されなかった時代から、世界一で一気に脚光を浴びる瞬間まで、内側で見てきた人ですから。
競技環境がどう変わり、何が足りなかったのか。教科書には載っていない話を、当事者として語れる立場にいます。
着任は秋とされていて、大学のサイトに教員として名前が並んでいます。かつて教員免許を目指した人が、免許とは別のルートで教壇に立ったことになりますね。
澤穂希の学歴についてまとめ
ここまでの内容を整理します。
- 小学校は府中市立若松小学校。2年生でサッカークラブに入団した
- 中学校は府中市立府中第五中学校。1年生で読売ベレーザに入団している
- 中学3年でLリーグのベストイレブンに選ばれ、1993年12月6日に代表デビュー
- 高校は東京都立南野高等学校。クラブと代表を掛け持ちしながら卒業した
- 大学は帝京大学教育学部。教員免許の取得を目指したが中退している
- 現在は京都産業大学 経営学部の特別客員教授で、担当は「マネジメント特講(スポーツ)」
学歴だけを並べると、地元の公立校から進学して途中で辞めた、という短い説明で終わってしまいます。
ただ、その裏側では小学生でスカウトされ、中学生で代表に呼ばれ、大学生で海を渡っていました。学校の記録に残らない部分のほうが、はるかに濃い10年だったわけですね。そして中退から20年以上を経て、大学に教員として戻ってきた。この一周が、いちばんこの人らしい経歴なのかもしれません。

