千賀健永の父親の会社は?本人が語った家業は名古屋の焼き肉店だった

千賀健永の父親の会社は?本人が語った家業は名古屋の焼き肉店だった

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Kis-My-Ft2のメンバーで、絵やダンスの振り付けでも才能を見せる千賀健永さん。「父親は会社の社長」「実家はお金持ち」といった話を目にして、父親の仕事が気になっている方も多いのではないでしょうか。

千賀健永さん本人がテレビで語った父親の仕事は、名古屋で母親と一緒に営んでいた焼き肉店の経営です。

ネットで広く紹介されている「広告会社の社長」という話は、本人の発言や報道では確認できませんでした。

この記事では、千賀健永さんの父親の会社と家業について、本人・母親・弟が公に語った内容をもとに整理します。

千賀健永の父親の会社は?本人が語った家業は焼き肉店

  • 父親の仕事と家業の基本情報
  • 両親は名古屋で焼き肉店を経営
  • 広告会社の社長説は確認できず
  • 店を後輩に預けて母と上京
  • 名古屋に残った父の思い

まずは、父親の仕事について本人や家族が話している内容と、上京のときに家業がどうなったのかを見ていきます。

父親の仕事と家業の基本情報

千賀健永さんは1991年3月23日生まれ、愛知県名古屋市の出身です。2003年に事務所へ入り、2011年にKis-My-Ft2のメンバーとしてCDデビューしました。家族は父親、母親、2歳下の弟の4人家族です。

父親は一般の方で、名前や顔写真は公表されていません。ただ、家の仕事については、千賀さん本人、母親の千賀のり子さん、弟の丈意さんが、それぞれ番組や雑誌の取材で話しています。分かっていることを先に一覧にしておきます。

父親の仕事 名古屋で母親と焼き肉店を経営していた(本人が番組で発言)
「広告会社の社長」説 本人の発言や報道では確認できない
会社名・店名 公表されていない
母親の仕事 2022年に渋谷駅の近くで美容サロンを開業
弟の仕事 2021年に東京・港区で精肉店を開業
祖母の仕事 印刷会社に勤めていたと報じられている

この表のうち、父親に直接かかわるのは上の3行です。「父親 会社」という言葉で調べられることが多いのですが、本人の口から出てきたのは会社の名前ではなく、「焼き肉屋」という家業でした。

話の出どころも先に示しておきます。千賀さん本人の発言は2023年5月の『徹子の部屋』と2024年9月の『ダウンタウンDX』、母親の話は2023年4月のインタビュー、弟の話は2023年3月と2024年11月の週刊誌の取材です。どれも本人たちが自分の口で語った内容で、うわさをまとめたものではありません。

もうひとつ目を引くのは、家族のほとんどが自分の店を持った経験のある人だという点です。父親と母親は夫婦で飲食店を営み、母親はのちに美容サロンを、弟は精肉店を開きました。

会社勤めの家庭ではなく、店を切り盛りする両親の背中を見て育ったことになります。千賀さんがアイドルの仕事と並行して、絵や立体作品を自分の手で作り、個展まで開いてきたことを思うと、この家の空気は無関係ではなさそうです。ここからは、表の中身をひとつずつ、出どころと一緒に確かめていきます。

両親は名古屋で焼き肉店を経営

父親の仕事について、千賀さんがはっきり話したのは、2023年5月16日に放送された『徹子の部屋』でした。事務所に入った当時のことを聞かれて、次のように答えています。

「父と母が名古屋で焼き肉屋を経営してまして。僕のジャニーズの入社が決まった後に、僕1人で東京には行かせられないので、焼き肉屋を1回後輩に預けてくれました」。スポーツ紙は、この発言を千賀さんが「しみじみ感謝していた」様子とあわせて伝えました。

千賀さんは「父と母が」と話しており、焼き肉店は父親ひとりの店ではなく、夫婦で営む店だったことが分かります。

同じ放送を取り上げたほかの記事も、「両親は当時、名古屋で焼き肉店を経営していた」「両親はともに名古屋で焼肉店を経営していた」と書いています。複数の媒体が同じ内容を伝えているので、番組での発言として間違いのないところです。

この回は、放送前の番組紹介でも、デビューまでの年月を支えてくれた両親への感謝を明かす回だと予告されていました。家業の話は、親への感謝を語る流れの中で、本人が自分から持ち出したものだったわけです。

この話は、弟の丈意さんの言葉とも一致します。丈意さんは2023年3月に週刊誌の取材を受け、「僕が小さいころ、両親は名古屋で焼き肉店を経営していた。だから肉の扱いには慣れていたんですよ」と話しました。

兄は番組で、弟は雑誌で、別々の場面で同じ家業を語っています。母親ののり子さんも2023年のインタビューで「夫も私も名古屋で仕事していたし」と話しており、夫婦そろって名古屋で働いていたことがうかがえます。

一方で、店の名前や場所、店をいつ始めたのかは、どの発言にも出てきません。後輩に預けたあとの店がどうなったのかも、語られていませんでした。父親の名前や顔も、番組や記事には出ていません。

分かっているのは、千賀さんが事務所に入った2003年ごろ、両親が名古屋で焼き肉店を営んでいたというところまでです。

広告会社の社長説は確認できず

ネット上では、千賀さんの父親を広告関係の会社の社長でデザイナーでもある、と紹介する記事が数多く見られます。検索で「父親 会社」と調べる方が多いのも、この話が広まっているためでしょう。

手がかりになるのは、雑誌『Myojo』のロングインタビュー(2013年1月号掲載)です。千賀さんは小学生の頃の夢を振り返る中で「父がデザイナーで、絵を描くのも好きだったんで」と話しており、父親がデザイナーだったことは本人の言葉で確認できます。

ただし、どんな分野のデザイナーなのか、会社を経営していたのかは語られていません。

番組での発言、母親のインタビュー、弟の取材記事にも、広告会社やその社名は出てきませんでした。

この話を載せている記事にも出典は示されておらず、会社の名前や場所は分からないと書いているものもあります。そのためこの記事では、会社名や業種を推測で書くことはしません。父親が東京に移ってからどんな仕事をしているのかも、公表されていませんでした。

絵がうまいのは父親ゆずりだという見方もありますが、千賀さん自身が絵のきっかけとして挙げているのは、祖母とテレビ番組です。

2024年6月、先輩の中丸雄一さんのYouTubeに出演したときには、祖母との思い出を明かしました。報道によると、祖母は印刷会社に勤めていて、千賀さんは大のおばあちゃん子だったそうです。

「小学3年生のとき、おばあちゃんが仕事してる絵を描いた。その絵をプレゼントしたらすっごい喜んでくれてうれしかった」。のちに祖母が病気で千賀さんのことを思い出せなくなったとき、その絵を見せると涙を流してくれたといい、「人の記憶に残るものを作りたいって思った」と語りました。自作のフィギュアにも祖母の面影を取り入れていると話しており、創作の原点に祖母がいることが分かります。

2021年のバラエティー番組では、『プレバト!!』での活躍をきっかけに絵を描くようになったと紹介され、「将来的に個展とかしたいんです!」と話しています。その言葉どおり、2023年5月には東京・表参道で初めての個展を開きました。

報道で確認できる範囲では、家族の中で印刷にかかわる仕事をしていたのは祖母です。父親については、焼き肉店の経営のほかに確かめられる仕事はありませんでした。

店を後輩に預けて母と上京

夫婦で営んでいた焼き肉店は、千賀さんが事務所に入ったことで大きな転機を迎えます。きっかけは、母親の知人の縁で訪れた嵐のコンサートでした。

千賀さんは舞台で歌い踊る姿を見て「うわ、この世界に入りたい」と思い、履歴書を送ります。母親ののり子さんによると、最初の応募から1年半ほどは返事がなく、もう一度ビデオと履歴書を送ってオーディションに受かったそうです。入所は2003年のことでした。

オーディションは名古屋の会場で行われたといい、この時点ではまだ一家は名古屋で暮らしていました。のり子さんによると、幼い頃の千賀さんは「あんまり自分の意見を言う子じゃなかった」そうです。

その後、東京に来るよう声がかかり、本人も「行きたい」と言い出します。のり子さんは2023年4月に公開された『週刊女性PRIME』のインタビューで、当時の迷いをこう語りました。

「夫も私も名古屋で仕事していたし、デビューできるかどうかもわからないですから、上京は“賭け”ですよね。友人や主人には大反対されました。でも、私は“この子の夢に賭けたいな”と思って」。

店を営む夫婦にとって、片方が抜けるのは家業そのものを揺るがす話です。周りからは「デビューなんかできるわけないでしょ」とさんざん言われたとも明かしています。それでも母親は、息子と2人で東京へ移ることを決めました。

このとき店をどうしたのかについて、千賀さんは「焼き肉屋を1回後輩に預けてくれました」と話しています。報道の中には「店を辞め」と書いたものもありますが、本人の言葉は「預けた」でした。

完全にたたんだのか、人に任せて続けたのかは、はっきり語られていません。ただ、両親が自分たちの店よりも息子の夢を優先したことは、本人の言葉から伝わってきます。

番組の紹介記事は、デビューまでの期間を「8年間」と伝えています。先の見えない時期に家業を手放す決断をしたことを、千賀さんは「僕1人で東京には行かせられないので」と、親の側の気持ちに立って振り返っています。

名古屋に残った父の思い

母親と千賀さんが東京へ移ったあと、父親は名古屋に残りました。もともとは弟の丈意さんも一緒に上京するはずでしたが、直前で気持ちが変わったそうです。

丈意さんは「一緒に行くつもりでクラスメイトには送別会も開いてもらったんですけど、寄せ書きを読んでいたら離れ難くなって、父と名古屋に残ることにしました」と話しています。のり子さんも「主人と名古屋に残りました(笑)」と、同じ場面を振り返りました。

こうして千賀家は、東京の母と兄、名古屋の父と弟に分かれて暮らすことになります。上京に反対していた父親は、どんな気持ちで2人を送り出したのでしょうか。

千賀さんは『徹子の部屋』で、「父は少しさみしい気持ちはあったと聞いてますが、僕の夢のために背中を押してくれました」と語っています。

母親の話では「大反対」、本人の話では「背中を押してくれました」。言葉は違いますが、反対しながらも最後は送り出したという父親の姿が浮かびます。家業を一緒に営んできた妻と、まだ子供だった長男が家を離れるのですから、さみしさがあったのは当然でしょう。

名古屋での父親と弟の暮らしぶりは、丈意さんの取材記事にわずかに出てきます。記事によると、丈意さんは父親との2人暮らしの中で料理に興味を持ち、食事や弁当を自分で作るようになったそうです。

兄弟はもともと、そろって名古屋のダンススクールに通っていました。丈意さんは「兄は憧れであり芸能界を目指すライバルだった」とも語り、兄と離れてからはダンススクールも辞めてしまったと明かしています。

父親がその間どんな仕事をしていたのかは、どの記事にも書かれていません。分かっているのは、妻と長男を東京へ送り出し、次男と2人で名古屋の家を守ったということです。

千賀さんは番組の中で、夢を応援してくれた両親への感謝を口にしました。家業を持つ父親にとって、家族が二手に分かれる暮らしは軽い決断ではなかったはずです。その重さを、大人になった本人がよく分かっていることが伝わってきます。

千賀健永の父親と家族の仕事|母はサロン・弟は精肉店

  • 家族で住む家を買った親孝行
  • 母は渋谷でサロンを開業
  • 弟は港区で精肉店を開いた
  • 実家は金持ちなのか
  • 仕事観とお金の使い方
  • 千賀健永の父親の会社まとめ

ここからは、デビュー後に家族がどうなったのか、母親と弟の仕事、そして千賀さん自身の仕事やお金との向き合い方を見ていきます。

家族で住む家を買った親孝行

離れて暮らしていた家族がもう一度そろったのは、千賀さんがデビューしてからのことです。『徹子の部屋』で黒柳徹子さんから親孝行について聞かれると、こう答えました。

「父と弟が名古屋、僕と母が東京に暮らしていたので、(父親と弟を)東京に呼んで、家族で住む家を買いましたね。デビューして2年目ぐらいで。やっと家族が一つになれて安心しました」。

デビューして2年目ごろ、千賀さんは父親と弟を東京に呼び、家族4人で住む家を自分で買いました。

別の記事によると、両親からは「やっと家族が1つになれた」という言葉があり、千賀さんはその言葉に「本当に安心しました」と話しています。当時の記事は、この出来事を「デビュー2年目で実家購入」と見出しにして伝えました。

2024年9月の『ダウンタウンDX』でも、この家の話が出ました。芸能人が人生設計の悩みを打ち明けるという回でした。東京都内に一軒家を買ったことを明かし、「4人で暮らしたいっていうのが夢だった」と理由を説明しています。

母親と上京してからずっと、父親や弟と一緒に住みたいと思っていたそうです。家を買ったことはもともと公にしていなかったといい、司会の浜田雅功さんも「すごいな」と感心していました。

もっとも、この家には長く住めませんでした。番組で先輩に家のことを話されたのをきっかけにファンが家を探しに来るようになり、その後引っ越したと本人が明かしています。

ここで押さえておきたいのは、家を用意したのが父親ではなく千賀さん本人だという点です。実家が裕福だからと結びつけて語られることもありますが、本人が語っているのは、自分が家を買って父親と弟を呼び寄せたという話でした。

父親は名古屋を離れ、東京で家族と暮らすようになりました。東京での父親の仕事については、本人も家族も話していません。ただ、子供の夢のために家業を手放した父親に、今度は息子が家を用意したという流れは、この家族の関係をよく表しています。

母は渋谷でサロンを開業

母親の千賀のり子さんは、自分の名前で活動している美容家です。2022年3月、JR渋谷駅の近くに美容サロン『COCO-SENGA』を開きました。

『週刊女性PRIME』のインタビューでは、このサロンを自分で経営していると紹介されています。名古屋で夫と焼き肉店を営んでいた母親が、息子のデビューから10年あまりたって開いたのが、美容という別の分野の店でした。

もっとも、美容への思いは昔からあったそうです。のり子さんは「私は名古屋出身なんですが、良いエステがあるとわざわざ新幹線に乗って東京までエステのために来ていました」と話し、「いつか美容の世界に入りたい」という思いを持ち続けてきたと明かしています。

開業のきっかけは、海外へ美容の施術を受けに行けなくなった時期に、同じような効果を国内のサロンで出せないかと考えたことでした。思いついたことを自分の店として形にするあたりに、店を営んできた人らしさが出ています。

将来の目標も、経営者としてのものでした。のり子さんは「多店舗展開したいなと考えています」と話し、さらに「“頑張っている女性に、のれん分けのように独立してもらう”そんなビジネススタイルを作りたいです」と語っています。

サロンのオリジナル商品を作って発信していきたいとも話しており、店を軸に仕事を広げていく考えを持っていました。記事は、息子の活躍に刺激を受けて「サロン経営という新たな挑戦」に乗り出した人として、のり子さんを紹介しています。

「のれん分け」は、飲食店でよく使われる言葉です。千賀さんが番組で話した「焼き肉屋を1回後輩に預けてくれました」という一言とも、どこか重なります。

自分の店を育て、人に任せ、独立する人を増やしていく。のり子さんの考え方は、夫婦で焼き肉店を営んでいた頃から変わっていないのかもしれません。父親の会社を知りたいと調べた方にとっても、母親のこうした歩みは、千賀家がどんな家なのかを知る手がかりになります。

弟は港区で精肉店を開いた

2歳下の弟・丈意さんは、東京・港区で精肉店を営んできました。2023年3月に週刊誌『FRIDAY』の取材を受け、店を開くまでの歩みを自分の言葉で語っています。

記事によると、店のオープンは2021年3月です。地域の常連客にも恵まれましたが、有名な兄がいることは伏せて営業してきたといいます。「そこを売りにするのは抵抗がありました」というのが理由でした。

精肉店にたどり着くまでには、回り道もありました。大学を卒業したあと、屋上でバーベキューができる店を都内に開いたものの、「コロナ禍で店をたたまざるを得なくなり、その後はアパレルや美容の仕事をしていました」と話しています。

そこからもう一度食の世界に戻るとき、支えになったのが兄の一言でした。実家に帰ってきた千賀さんにパスタを作ると、「お前のバジルパスタ、日本一美味いわ」と言われたそうです。丈意さんは「『美味しいね』って言ってもらえること、それが僕の生きがいだと気づいたんです」と振り返っています。

両親の焼き肉店で肉に親しんで育った経験が、弟の精肉店という仕事につながっていたのです。

店は2023年の年末にいったん閉まり、2024年の夏に近くの場所で『Meat Garage』として再び開きました。2024年11月の記事で丈意さんは、「前は共同経営者がいたんですけど、キリが良かったんで前の店を閉めるタイミングで独り立ちすることにしたんです」と説明しています。

兄との関係も変わらず良好なようです。「兄もすごく応援してくれています。先日もスタッフさん用の弁当を50個オーダーしてくれました」と話し、打ち上げの焼き肉用の肉を届けたこともあると明かしました。

店の今後については「家族には“インバウンド客向けに商売すればいいんじゃないか”とアドバイスされました」とも語っています。家族の会話に商売の話が自然に出てくるところに、店を営んできた一家らしさがにじみます。

実家は金持ちなのか

父親の会社とあわせてよく調べられているのが、「実家はお金持ちなのか」という点です。結論からいうと、収入や資産を示す数字は本人からも家族からも公表されておらず、金額で語れる材料はありません。

確認できる事実を並べてみます。両親は名古屋で焼き肉店を経営していました。千賀さんは「幼稚園の頃からダンスをずっとやっていて」と話しており、弟の丈意さんも一緒に名古屋のダンススクールへ通っていたと報じられています。

番組の紹介記事にも「幼少期から厳しいダンスのレッスンを受け」とあり、習い事は遊びの延長ではなく本格的なものでした。のり子さんも、幼稚園からダンスをやっていたのでオーディションにビデオを送れたと話しています。

母親ののり子さんは、名古屋に住んでいた頃から、良いエステがあれば新幹線で東京まで通っていたと語りました。美容への思いは若い頃から強かったそうです。子供2人の習い事を続けさせ、母親が東京まで出かける余裕があったのですから、暮らしにゆとりのある自営業の家庭だったとはいえそうです。

一方で、上京してからの家計が楽だったとは限りません。母親は店の仕事を離れて東京で息子を支え、父親と弟は名古屋に残りました。住まいを2か所に持つ暮らしが、デビューして2年目ごろまで続いたことになります。

母親はこの上京を「賭け」と呼んでいました。うまくいく保証のない挑戦に、家業を手放してまで踏み出したわけで、何もかも恵まれた順風満帆な話とは少し違って見えます。

ネット上には、学生時代の持ち物や車を親に買ってもらったとする話も出回っています。しかし、本人の発言や報道では確認できませんでした。東京の家についても、本人は自分で買ったと話しています。

はっきり言えるのは、店を営む両親が、子供の習い事と夢に時間もお金もかけた家だったということです。「金持ちかどうか」よりも、何にお金と時間を使う家だったのかを見たほうが、千賀家の姿はよく分かります。

仕事観とお金の使い方

店を営む両親のもとで育った千賀さんは、仕事やお金についてどんな考えを持っているのでしょうか。本人や母親の言葉から拾ってみます。

母親ののり子さんは、「与えられた事」「求められる事」に対してきっちり結果を出していけば、いつかやりたいことができるようになるよ、と千賀さんが小さい頃から伝え続けてきたそうです。客商売を続けてきた人らしい、地に足のついた教えです。

千賀さん自身も、母親からはいつも「一番を取りなさい」と言われてダンスに励んできたと、個展のときのインタビューで話しています。結果を出すことに厳しい家だったことがうかがえます。

そのうえで千賀さんは、自分のことを「どうしても昔から表現者よりも作る側の感覚が強い」と語っています。

与えられた役をこなすだけでなく、自分で何かを作って人に届けたいという気持ちです。絵や立体作品を作って個展を開き、ダンスの振り付けも手がけてきた歩みは、この言葉とつながっています。

お金の使い方にも、作り手としての姿勢が出ています。2024年2月に放送された『ダウンタウンDX』の紹介記事では、革選びから縫製まで自分で手がけるスニーカー作りについて、「どんどんこだわっちゃって。どれだけお金がかかってもいいものを作りたい」と話したと伝えられました。

その一方で、失敗したときの帳尻の合わせ方は堅実です。2025年7月の番組では、ネットショッピングで失敗が続いたときは外食を減らすと明かし、「後輩との食事が1回2万円だとすると、8回の食事をなくせばいい」と説明しました。使った分をどこで取り戻すかを数字で考えるあたりは、商売人の家の子らしい感覚といえそうです。

2024年3月のラジオでは、海外での個展やグッズで出費が重なるファンに向けて「すんごいお金使わせてるな。ごめんね」と謝る場面もありました。お客さんの財布を気にかける目線は、店に立つ人のそれに近いものがあります。

ただし、千賀さん本人が、家業の影響でこうなったと語ったわけではありません。ここで言えるのは、店を営む両親のもとで育った人が、作ること・届けること・お金の重さを、自分の言葉で語っているということです。

千賀健永の父親の会社まとめ

千賀健永さんの父親の会社と家業について、分かっていることをまとめます。

  • 千賀健永さんは1991年3月23日生まれ、愛知県名古屋市出身で、父・母・弟の4人家族
  • 本人が番組で語った父親の仕事は、名古屋で母親と営んでいた焼き肉店の経営
  • 弟の丈意さんも「両親は名古屋で焼き肉店を経営していた」と話している
  • 父親がデザイナーだったことは本人が雑誌で語っているが、「広告会社の社長」という話は本人の発言や報道では確認できない
  • 会社名や店名、父親の名前は公表されていない
  • 事務所に入ったあと、両親は店を後輩に預け、母親が千賀さんと2人で上京した
  • 父親は弟と名古屋に残り、さみしさを抱えながらも夢のために送り出した
  • デビューして2年目ごろ、千賀さんが家族で住む家を買い、父親と弟を東京に呼んだ
  • 母親は2022年に渋谷で美容サロンを、弟は2021年に港区で精肉店を開いた

父親の「会社」として確かめられるのは、夫婦で営んだ名古屋の焼き肉店でした。その店を手放してまで息子の夢を支えた両親の決断が、千賀健永さんの歩みの出発点になっています。これからの活躍にも注目です。

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