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次田展之さんという名前を目にして、どんな人物なのか気になった方も多いのではないでしょうか。
芸能人でもタレントでもありません。瀬戸内海に浮かぶ3つの島で診療所を運営し、自らヘリコプターを操縦して患者のもとへ向かう医師です。
医師でありパイロット。しかも若い頃はアクロバット飛行のチームに所属していたという、経歴だけ並べると小説のような人物になります。
この記事では、次田展之さんの経歴を生い立ちから順にたどり、離島医療にたどり着くまでの道のりを整理していきます。
目次
次田展之の経歴|医師とパイロットを両立するまでの歩み
まずは生まれ育ちから、離島へ向かうまでの歩みを確認していきましょう。
- 生まれ育ちと父から受けた影響
- 医学部在学中に取った操縦免許
- アクロバット飛行チームでの日々
- 病院勤務で磨いた総合力
- 離島医療へ向かった転機
生まれ育ちと父から受けた影響
次田展之さんは1973年1月生まれ、神奈川県相模原市の出身です。読み方は「つぎた のぶゆき」さんとなります。
日本経済新聞の連載「人間発見」で、本人が家庭環境について語っています。「相模原市で生まれ育ちました。父と母、私の3人家族。父が外資系の大手航空会社に勤めていたこともあり、家の中は海外の食器や調度品であふれていました」
父親が航空会社に勤めていた家庭。空の仕事が食卓の話題にのぼる環境で育ったわけです。後に自ら操縦桿を握ることになる原点は、このあたりに置かれています。
先に、経歴を整理しておきます。
| 氏名 | 次田展之(つぎた のぶゆき) |
| 生まれ | 1973年1月・神奈川県相模原市 |
| 高校 | 私立静岡聖光学院高等学校 |
| 大学 | 日本大学医学部 |
| 飛行機 | 1995年に米国で小型機の操縦免許を取得 |
| アクロバット | 2002年、飛行チーム「エアロック」に所属 |
| 医師の職歴 | 日大板橋病院 麻酔科研修医→帝京大市原病院ER→さがみホームクリニック副院長 |
| 離島医療 | 2011年 百島診療所/2018年 佐木島診療所/2026年 岩城島診療所 |
| 現在の立場 | 社会医療法人心海会 理事長 |
| 受賞 | 2022年 第9回やぶ医者大賞 |
高校は私立静岡聖光学院高等学校へ進み、その後は日本大学医学部で学んでいます。医師の家系というより、航空の空気を吸って育った少年が医学の道を選んだ形です。
医学部在学中に取った操縦免許
次田展之さんの経歴で最初に驚かされるのが、学生時代の行動力です。医学部に通いながら、渡米して飛行機の免許を取りに行っています。
「医学部に通いながら1995年に米国で小型飛行機の操縦免許を取得しました」と本人が語っています。訓練地はカリフォルニアでした。
医学部といえば、実習と試験に追われる学生生活の代名詞のような場所です。その合間を縫って海を渡り、操縦訓練を受けていたわけですから、相当な熱量だといえます。
そして、この滞在中に人生を変える光景に出合います。空港の近くで、複葉機によるアクロバット飛行を目撃したのです。地上から見上げた曲技飛行に、強く心を動かされたと振り返っています。
ただ免許を取って終わりにしなかった理由は、ここにあります。飛ぶことが移動手段ではなく、追いかけたい技術になった瞬間だったといえます。
米国は、日本に比べて小型機の訓練環境が整っている国です。飛行時間を確保しやすく、費用も抑えられます。学生の身で本気で免許を取ろうとすれば、渡米はむしろ合理的な選択でした。
とはいえ、思い立って実行に移せる医学生はそう多くありません。父親が航空会社に勤めていた家庭で育った影響が、ここでも効いていたと考えるのが自然でしょう。
アクロバット飛行チームでの日々
曲技飛行に魅せられた次田展之さんは、その道の一流に学ぶ選択をします。師事したのは、世界的なエアショーパイロットであるショーン・タッカーさんでした。
そして2002年には、日本のアクロバット飛行チーム「エアロック」に所属しています。趣味の延長ではなく、観客の前で演技をする側に回ったということです。
アクロバット飛行は、機体に大きな重力加速度がかかる世界です。身体への負荷も操縦技術の要求水準も、通常の飛行とは比べものになりません。医師としての知識を持つ人間が、その負荷を自分の身体で受け止めていたことになります。
エアショーの世界は、観客の頭上で技を披露する以上、失敗が許されません。天候、機体の状態、自分のコンディション。すべてを見極めたうえで飛ぶかどうかを決める判断の連続です。
この時期の経験は、後の離島医療にそのままつながっていきます。悪条件のなかで機体を正確に扱う技術がなければ、海を越えて患者のもとへ通う発想は出てこなかったはずです。
医師としての道と飛行士としての道を、この頃はどちらも捨てずに抱えていました。二足のわらじという言葉で片づけるには重すぎる両立ですが、そのどちらも手放さなかったからこそ、後の働き方が生まれています。
病院勤務で磨いた総合力
飛行チームを離れた後、次田展之さんは医師としての土台づくりに専念します。この時期の心境も、本人の言葉が残っています。
「脱退後の2年間は、へき地に赴任した場合も想定し、大学付属病院で麻酔や救急救命、外科、皮膚科、内科とあらゆる技術や分野を経験しました」
注目したいのは「へき地に赴任した場合も想定し」という部分です。この段階ですでに、医師が少ない土地で働く自分を思い描いていたことになります。
専門を一つに絞る道を選ばなかったのは、そのためです。医師が一人しかいない場所では、目の前に来た患者をすべて診なければなりません。麻酔も救急も外科も内科も、という幅の広さが必要になります。
大学病院では、専門を深く掘っていくのが一般的なキャリアの積み方です。分野をまたいで浅く広く回るという選び方は、出世の道筋から見れば効率的とはいえません。それでもこの2年間を選んでいるところに、目的の明確さが表れています。
同時に、迷いも語られています。「勤務医としての安定した生活になじんでしまうのでは、という心の機微を自分で感じていました」。安定に飲み込まれることへの警戒が、次の一歩を後押ししていったわけですね。
離島医療へ向かった転機
実際の職歴を並べると、その準備の周到さが見えてきます。日本大学医学部附属板橋病院の麻酔科研修医から始まり、帝京大学医学部附属市原病院でER(救急外来)の非常勤助手を務めました。
さらに在宅支援診療所であるさがみホームクリニックでは、副院長として在宅医療にも携わっています。病院で待つ医療ではなく、患者の生活の場へ出向く医療を経験したことになります。
救急、麻酔、在宅。この3つを押さえた医師が、次に選んだのが離島でした。2011年、医師が不在だった広島県尾道市の百島に診療所を開設します。
神奈川で生まれ育った人物が、縁もゆかりもない瀬戸内の小さな島へ移り住む。しかも既存の診療所を引き継ぐのではなく、自分で開くという選択です。ここから、次田展之さんの経歴は一気に独自の色を帯びていきます。
次田展之の経歴が生んだフライングドクターの現在
ここからは、離島に渡ってからの活動を見ていきます。
- 医師不在の島に開いた診療所
- 3つの島をヘリで結ぶ理由
- やぶ医者大賞に選ばれた評価
- 島民に親しまれる名医の素顔
- 情熱大陸で描かれる挑戦
- 次田展之の経歴と離島医療まとめ
医師不在の島に開いた診療所
最初の拠点となった百島は、広島県尾道市に属する小さな島です。尾道からフェリーで45分ほど、周囲は約12キロという規模になります。
島の状況は決して楽なものではありません。人口はおよそ400〜500人で、高齢化率は66.9%と伝えられています。住民の3人に2人が高齢者という計算です。
医療の必要度が高い一方で、常勤の医師がいない。次田展之さんが2011年に百島診療所を開設したのは、まさにその空白を埋めるためでした。
その後、拠点は少しずつ増えていきます。2018年には広島県三原市鷺浦町の佐木島診療所、そして2026年には愛媛県越智郡上島町の岩城島診療所を手がけました。
岩城島の診療所は、医師不在の影響で約1年間休止していた島唯一の医療機関です。新たな運営者として社会医療法人心海会が引き受け、2026年5月に再開しています。県をまたいで3島に広がった形になります。
診療所が閉じるということは、島で暮らす人にとって受診のたびに船に乗る生活を意味します。再開の知らせがどれほど大きいかは、想像に難くありません。
3つの島をヘリで結ぶ理由
ここで問題になるのが移動です。島と島のあいだは海であり、船の便は時刻表に縛られます。急な往診に船のダイヤは待ってくれません。
その答えが、ヘリコプターでした。次田展之さんは事業用ヘリコプターの操縦資格を取得し、自ら操縦して島々を回っています。学生時代に取った小型機の免許が、20年以上を経て仕事の道具になったわけです。
日本経済新聞は、その様子をこう描写しています。「パタ、パタ、パタ……。ヘリコプターのプロペラ音が聞こえたら診療所が開く合図」
島の人にとっては、時計を見るよりプロペラ音のほうが確実だということです。空から医師がやって来る光景が、日常の一部になっています。
船舶免許も持っている
移動手段はヘリだけではありません。船舶免許も保有しており、小型船で訪問診療に向かうこともあります。空と海の両方を使い分けられる医師という点が、この人の特異なところです。
「島民はみんな家族」という考え方
患者一人ひとりの情報を細かく把握したうえで診療にあたっており、「島民はみんな家族」という方針が語られています。人数が限られているからこそ可能な、顔の見える医療といえます。
やぶ医者大賞に選ばれた評価
こうした活動は、外部からも高く評価されています。2022年6月、次田展之さんは第9回やぶ医者大賞を受賞しました。
やぶ医者大賞は、兵庫県養父市が2014年に創設した表彰です。名前の由来がふるっていて、「やぶ医者」という言葉の語源が、かつて養父にいた名医を指していたという説にちなんでいます。へき地医療に尽くす医師をたたえ、若手医師の育成を後押しする目的で設けられました。
神戸新聞の記事では、受賞理由が具体的に紹介されています。医師が不在だった百島に診療所を開設したこと、そして「小型船に加え、ヘリコプターを操縦し、近隣の離島へも訪問診療を続ける」点が評価されました。
同じ回では、兵庫県丹波市の医師とともに選ばれています。派手さのある賞ではありませんが、地域医療の現場を知る人からすれば、その重みは十分に伝わるはずです。
離島やへき地の医療は、担い手が続かないことが最大の課題だといわれます。一人の医師が長く残ること自体が難しいなかで、開設から10年以上にわたって続けてきた実績が評価された形になります。
島民に親しまれる名医の素顔
数字や肩書きよりも、島での立ち位置を物語るエピソードがあります。地元の子どもたちが手作りしたかるた「みんなの百島」の話です。
このかるたには、次田展之さん自身が「島の名医」として登場しているといいます。子どもが遊びの札に描くほど、日常に溶け込んだ存在だということです。
趣味として柔術や総合格闘技に打ち込んでいることも知られています。曲技飛行に格闘技と、身体を張る分野が並ぶあたりに人柄がにじみます。
一方、私生活については公式なプロフィールで配偶者や子どもの情報が公表されていません。医療者であり一般の方でもあるため、この記事でも家族の詳細には踏み込まない形にしておきます。
島にとっては医師であり、隣人でもある。診療所の外で交わされる何気ない会話まで含めて、この人の仕事なのだろうと思わされます。
高齢化率が7割近い島では、診察室で聞き取れる情報だけが判断材料ではありません。誰が誰の親戚で、どの家の坂がきついか。そこまで含めて把握している医師がいることの意味は、数字では測りにくいものがあります。
情熱大陸で描かれる挑戦
その活動が、全国区の番組で紹介されます。2026年8月9日、MBS・TBS系の『情熱大陸』に次田展之さんが登場します。
サブタイトルは「空飛び命守る!フライングドクター」。診療所医師でありパイロットでもある、という肩書きがそのまま番組の見どころになっています。
先立って、日本経済新聞の「人間発見」でも全5回の連載が組まれました。生い立ち、飛行機免許の取得、医師と飛行士の二足のわらじ、そして進路を固めた出来事まで、本人の言葉で語られています。
ただ、活動が順風満帆というわけではありません。島の人口減少と少子高齢化が進むにつれ、患者数そのものが減っていく現実があります。
それでも「息の長い離島医療の経営モデルになることを目指し挑戦を続ける」という姿勢が語られています。医療を続けるためには、経営として成り立たせる必要がある。理想論では終わらせない視点が、この人の強さだといえます。
次田展之の経歴と離島医療まとめ
- 1973年1月生まれ、神奈川県相模原市の出身。父は外資系の大手航空会社に勤務
- 私立静岡聖光学院高等学校を経て、日本大学医学部へ進学
- 1995年、医学部在学中に渡米して米国で小型飛行機の操縦免許を取得
- エアショーパイロットのショーン・タッカーさんに師事し、2002年に飛行チーム「エアロック」へ
- 大学付属病院で麻酔・救急救命・外科・皮膚科・内科を経験し、へき地赴任を想定して幅を広げた
- 日大板橋病院の麻酔科研修医、帝京大市原病院のER、さがみホームクリニック副院長を歴任
- 2011年に医師不在だった広島県尾道市・百島で百島診療所を開設
- 2018年に佐木島診療所、2026年に岩城島診療所を開設・運営し、社会医療法人心海会の理事長を務める
- 事業用ヘリコプターと船舶の免許を持ち、自ら操縦して3島を巡回する「フライングドクター」
- 2022年6月、第9回やぶ医者大賞を受賞。2026年8月9日には『情熱大陸』に出演
次田展之さんの経歴をたどると、飛ぶことと診ることが最初から一本の線でつながっていたわけではないと分かります。父の職業に触れて空に憧れ、医学を学び、曲技飛行に打ち込み、それぞれ別々に積み上げてきたものです。
その二つが交わったのが、船の便に縛られる島の医療という現場でした。趣味に見えた技術が、海を越えて人の命に届く手段になっている。そういう種類の人物だといえます。
