山村紅葉の若い頃は国税局員だった!早稲田在学中のデビューまで解説

山村紅葉の若い頃は国税局員だった!早稲田在学中のデビューまで解説

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山村紅葉さんの若い頃がどんな人だったのか、気になって検索された方は多いのではないでしょうか。

二時間サスペンスでおなじみの顔ですが、女優になる前に国税局で働いていたという経歴を知ると、印象がかなり変わります。

しかも女優デビューは大学在学中。順番でいえば、先に女優になってから公務員になった人なのです。

この記事では、京都で過ごした少女時代からデビュー、そして国税局員時代までを順番にたどっていきます。

山村紅葉の若い頃は京都の少女時代から早稲田大学へ

まずは生まれ育った環境と、女優デビューまでの道のりを見ていきましょう。

  • 生まれ育った京都と作家の母
  • 早稲田大学へ進んだ学生時代
  • 大学2年で決まった女優デビュー
  • 若い頃の印象はどうだったのか

生まれ育った京都と作家の母

山村紅葉さんが生まれたのは1960年10月27日、京都府です。母はのちに「ミステリーの女王」と呼ばれる作家の山村美紗さん。家の中に原稿と締め切りがある、少し変わった環境で育ちました。

推理小説が生まれていく過程を、子どもの頃から間近で見ていたことになります。後に本人が「推理好き」と語る素地は、この家庭で自然にできあがっていました。

学校は京都教育大学附属の学校に通っています。京都の落ち着いた学生生活の中で、母の仕事ぶりを見ながら育った時期です。

先に、若い頃の歩みを整理しておきます。

生まれ 1960年10月27日・京都府
ミステリー作家の山村美紗さん
学校 京都教育大学附属の学校→早稲田大学政治経済学部
女優デビュー 大学2年のとき。1983年放送『燃えた花嫁』
在学中の出演 卒業までに20本のドラマに出演
卒業後の進路 国税専門官として大阪国税局に勤務
結婚 1987年。大蔵省勤務の男性と結婚し退職

こうして並べると、若い頃の山村紅葉さんが相当に忙しい人だったことが分かります。学生でありながらドラマに出て、卒業後は難関試験を突破して公務員になっているのですから、器用さと粘り強さの両方があったのでしょう。

早稲田大学へ進んだ学生時代

京都で育った山村紅葉さんは、大学進学とともに上京します。進んだのは早稲田大学政治経済学部でした。

作家の娘という立場からすると、文学部を選びそうなところです。ところが選んだのは政治経済学部。この選択が、後の国税専門官という進路につながっていきます。

学生時代の山村紅葉さんは、女優になろうと考えていたわけではありませんでした。母の仕事は身近にありましたが、自分が表に出る側になるという発想は薄かったようです。

むしろ関心は、社会の仕組みや働き方のほうに向いていました。女性が男性と対等に働ける場所を探していた、というのが当時の本人の感覚だったといいます。

京都から東京へ出たことも、この時期の大きな変化でした。母の名前が知られている土地を離れ、ひとりの学生として過ごせる環境に身を置いたことになります。

そんな学生生活の途中で、まったく想定していなかった話が舞い込みます。それがドラマ出演の誘いでした。しかも舞台は、離れてきたはずの京都の実家だったのですから、人生の巡り合わせというのは分からないものです。

大学2年で決まった女優デビュー

きっかけは、京都の実家に帰省したときのことです。母・山村美紗さんのもとへ打ち合わせに来ていたテレビ局のプロデューサーから、出演してみないかと声をかけられました。

演技の経験はまったくありません。本人も「てっきりチョイ役かと思っていた」と振り返っています。ところが実際に用意されていたのは、物語の中で重要な位置を占める役でした。

こうして1983年放送の『燃えた花嫁』で女優デビューを果たします。母の原作が映像化された作品であり、母と娘がそれぞれの立場で同じ物語に関わった形です。

しかもこれは一度きりでは終わりませんでした。大学を卒業するまでの間に、20本ものドラマに出演しています。学業と撮影を並行させながら、気づけばテレビでよく見る顔になっていたわけですね。

それでも本人の中では、女優は本業ではありませんでした。あくまで学生であり、卒業後は別の道に進むつもりでいたのです。

若い頃の印象はどうだったのか

若い頃の山村紅葉さんについて語られるとき、決まって挙がるのが目元の印象です。細身の体つきと、大きな瞳、そして整った輪郭が特徴だったと評されています。

今のイメージから入った人ほど、当時の映像に驚くことが多いようです。サスペンスドラマで見せる親しみやすい雰囲気とは、また違った空気をまとっていました。

ただ、当時から変わっていない部分もあります。よく通る声と、はきはきとした話し方です。舞台やドラマで長く求められてきた理由は、この芯のある発声にありました。

また、大学在学中から20本のドラマをこなしていた事実からも分かるとおり、現場での物覚えの早さは早い段階から評価されていたようです。演技経験がないまま重要な役を任され、そこから途切れずに出演が続いたわけですから、対応力があったのは間違いありません。

山村紅葉の若い頃を決めた国税局員時代と女優復帰

ここからは、女優業をいったん離れて公務員になった時期と、そこから戻ってくるまでを見ていきます。

  • 国税専門官として大阪国税局へ
  • 脱税を暴く仕事の中身
  • 結婚と退職を選んだ理由
  • ニューヨークで変わった意識
  • 母の死で固まった覚悟
  • 山村紅葉の若い頃についてまとめ

国税専門官として大阪国税局へ

大学を卒業した山村紅葉さんが選んだのは、女優の道ではありませんでした。国税庁の国税専門官採用試験を受け、合格して大阪国税局に入っています。

国税専門官は難関試験として知られる職種です。20本のドラマに出ながら受験勉強もしていたことになりますから、その両立ぶりには驚かされます。

志望した理由は、はっきりしていました。女性が男性と対等に働ける場所であること。そして、脱税という問題に強い関心があったことです。

本人は「年間の脱税額の大きさに驚きました。こうしたお金がきちんと納税されて、福祉や教育に使われたら、日本はもっと充実した社会になるのに」と語っています。正義感がそのまま志望動機になっていたわけですね。

勤務期間については、本人が語る「2年弱」という表現と、およそ3年という記述の両方が見られます。いずれにしても、若い頃のごく短い期間だけ税務の現場に立っていたことになります。

脱税を暴く仕事の中身

国税局での仕事は、想像以上に山村紅葉さん向きだったようです。企業の帳簿を調べ、経営者との何気ない会話の中から矛盾点を見つけ出していく。まさに推理そのものの作業でした。

怪しいと睨んだ会社があれば、数字と証言を突き合わせていきます。つじつまの合わない部分をたぐっていくと、隠された手口が浮かび上がってくる。サスペンスドラマの構造とほとんど同じです。

母の書斎で推理小説が組み上がる過程を見て育った人が、現実の世界で同じことをしていたわけです。この経歴があるからこそ、後にサスペンスドラマで税務署員や刑事役を演じても、妙な説得力が出るのだといえます。

お金に対する感覚も、この時期に固まりました。現在も資産管理は人任せにせず自分で行うと語っており、国税専門官時代の経験が生き続けています。

本人はお金について比較的シビアに考えていると話し、入出金は自分で確認し、銀行の担当者ともこまめに連絡を取ると語っています。数字を人任せにしないという姿勢は、まさに現場で身につけたものでしょう。

若い頃のたった数年の職歴が、その後の生き方の土台になっている。国税局員時代は、女優としての経歴以上に、この人の考え方をつくった時間だったのかもしれません。

結婚と退職を選んだ理由

国税局に勤めていた時期に、山村紅葉さんは結婚を決めます。相手は大蔵省、現在の財務省に勤務していた男性でした。

仕事は続けたいという気持ちがありました。難関試験を突破して就いた職ですから、当然です。ただ、夫となる人には別の希望がありました。

「朝、味噌汁の香りで目覚め、夜は『今日の晩ごはんは何かな』と思いながら帰宅できるような温かい家庭が夢だった」。この言葉を受けて、山村紅葉さんはきっぱりと退職し、1987年に結婚しています。

当時の社会の空気を考えれば、珍しい選択ではなかったのかもしれません。それでも、自分で選んで入った職場を離れる決断には、相応の葛藤があったはずです。

ところがその後、思いがけない形で女優業が戻ってきます。旧知の女優からピンチヒッターを頼まれ、断りきれずに出演したのがきっかけでした。本人いわく「『あと1本、あと1本』という感じで、そのままズルズルと出演することに」なったそうです。

ニューヨークで変わった意識

転機は、夫の赴任に同行してニューヨークで1年間暮らすことになったときに訪れます。ちょうどその時期、初舞台の出演が決まっていました。

海外に行くならキャンセルするしかない。そう考えていた山村紅葉さんに、共演予定だった先輩から厳しい言葉が投げかけられます。「出演が決まっている舞台をキャンセルするくらいなら、もう女優は辞めた方がいい」。

この一言で腹をくくり、ニューヨーク滞在中に現地の演劇学校へ通いはじめます。ボイストレーニングもダンスも、基礎から学び直しました。

そこで見えてきたものは大きなものでした。「お芝居をすることは、こんなにも楽しく、奥深いものなのか」と気づき、自分は芝居が好きなのだとはっきり自覚します。夫には「ごめんなさい、私は舞台を選びます」と告げて帰国しました。

舞台を終えたあと、共演者からは山村美紗さんの娘がニューヨークでプロの女優になって帰ってきた、と評されたといいます。夫も舞台を見て「こんなに輝いている姿を初めて見た」と語り、以後は女優活動を後押しする側に回りました。

母の死で固まった覚悟

もうひとつの大きな転機が、1996年の母・山村美紗さんの死でした。突然の別れのあと、関係者から思いがけない話を聞かされます。

母は生前、周囲にこう漏らしていたというのです。「紅葉は私のコネで出ている女優だから、原作がたくさんないと困るでしょう」。

生きている間、母が娘の演技を褒めたことは一度もなかったといいます。それでも、作品を書き続けることで娘の場所を確保しようとしていた。その事実を、亡くなってから知ることになりました。

山村紅葉さんは、これからは女優として自分が母の作品を守っていかなければ、と決意します。若い頃に始まった女優業が、ここではっきりと一生の仕事に変わったわけですね。

現在も二時間サスペンスに欠かせない存在として出演を続けているのは、この覚悟が起点になっています。

山村紅葉の若い頃についてまとめ

  • 1960年10月27日、京都府生まれ。母はミステリー作家の山村美紗さん
  • 早稲田大学政治経済学部に在学中、大学2年で『燃えた花嫁』にて女優デビュー
  • 卒業までに20本のドラマに出演しながら、国税専門官採用試験に合格
  • 大阪国税局で帳簿調査などを担当し、脱税の手口を追う仕事に就いていた
  • 1987年に大蔵省勤務の男性と結婚し退職。その後ピンチヒッターで女優復帰
  • ニューヨークでの演劇学校と、母の死をきっかけにプロとしての覚悟が固まった

若い頃の山村紅葉さんをたどっていくと、女優と公務員という遠く見える2つの道が、実は同じ性質でつながっていたことが分かります。どちらも、隠れているものを見つけ出す仕事だったからです。

母の背中を見て育ち、いったんは別の道を選び、それでも戻ってきた。その回り道が、今の存在感をつくったのだといえます。

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