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金石昭人さんの実家がどこにあるのか、気になって検索された方が多いのではないでしょうか。
先に結論をお伝えすると、実家があるのは岐阜県加茂郡白川町です。
そしてこの家は、通算400勝投手を親族に持つ野球一家でもありました。
この記事では、実家のある町と家庭環境、そこから甲子園優勝校を経てプロへ進むまでを順に整理します。
目次
金石昭人の実家は岐阜県白川町|家族と少年時代
まずは、実家のある場所と育った環境から見ていきます。
- 実家があるのは加茂郡白川町
- 通ったのは大山小と白川中
- 中学で残した走り高跳びの記録
- 野球一家に生まれた環境
- 正月の道路でのキャッチボール
実家があるのは加茂郡白川町
最初に、場所をはっきりさせておきます。
金石昭人さんの出身地は、岐阜県加茂郡白川町です。
白川町は岐阜県の中南部、飛騨川沿いに広がる山あいの町です。白川茶の産地として知られ、町域の大半を森林が占めています。世界遺産で有名な白川郷(大野郡白川村)とは別の自治体なので、混同されやすい地名でもあります。
本人もインタビューで「岐阜の田舎の出身」と語っています。番地や現在の建物までは公表されていないため、この記事では町名までにとどめます。
まずは、経歴の全体像を並べておきます。
| 生年月日 | 1960年12月26日 |
| 実家(出身地) | 岐阜県加茂郡白川町 |
| 体格 | 197cm・86kg/右投右打 |
| 出身校 | 白川町立大山小学校→白川町立白川中学校→PL学園高等学校 |
| 親族 | 母方の伯父が金田正一さん、叔父が金田留広さん |
| プロ入り | 1978年オフ、広島東洋カープにドラフト外入団 |
| 通算成績 | 329試合 72勝61敗80セーブ 防御率3.38 |
| 現在 | 野球解説者。妻の陣内貴美子さんと都内で飲食店を経営 |
山あいの町から甲子園の優勝校へ、そしてプロへ。まずは地元での日々から見ていきます。
通ったのは大山小と白川中
少年時代は、意外にも野球一色ではありませんでした。
通っていたのは白川町立大山小学校です。この頃はソフトボールをかじった程度で、本格的に競技をしていたわけではありません。
軟式野球を始めたのは、白川町立白川中学校に入ってからでした。
のちに197cmまで伸びる体格ですが、この時点ではまだ完成していません。競技歴としては、中学スタートという遅めの部類に入ります。
地方の小さな町の公立中学から、全国屈指の強豪校であるPL学園へ進むことになるわけですから、この3年間で相当伸びたことが分かります。
山あいの町で過ごした少年時代が、そのまま体づくりの時間になっていたとも言えそうです。
中学で残した走り高跳びの記録
その身体能力を示すエピソードが、中学時代に残っています。
白川中の体育大会で出した走り高跳びの記録は、その後も破られていないとされています。
野球部の選手が、陸上の種目で校内記録を作ってしまったわけです。長身であることに加えて、跳ぶ力そのものが並外れていたことになります。
投手にとって下半身の力とバネは生命線です。のちに一軍で長く投げ続けられた土台は、この頃の身体能力にあったと考えると納得がいきます。
地元の学校に記録が残り続けているというのも、実家のある町ならではの話でしょう。町の人にとっては、今も「あの金石昭人の記録」なのだと思います。
ただ、この時点ではまだプロを意識していたわけではありませんでした。進路を決めたのは、親族との関わりです。
野球一家に生まれた環境
実家について語るうえで外せないのが、母方の親族です。
母方の伯父が、通算400勝投手の金田正一さんでした。
さらに叔父は、東映やロッテなどで活躍した金田留広さんです。3人の通算勝利を合わせると600勝に達します。ひとつの家系からこれだけの数字が出ているのは、プロ野球の歴史を見ても異例です。
金田正一さんは国鉄から巨人へ移り、通算400勝という前人未到の記録を残した投手です。引退後は監督としても知られ、テレビでの発言が話題になることも多い人でした。その存在が、少年時代の金石さんにとっては「親戚のおじさん」だったことになります。
本人は「400勝投手が親族ですから、僕は野球があって当たり前の環境で育ちました」と振り返っています。テレビの中の存在ではなく、正月に会う親戚がそれだったわけです。
金田正一さんが400勝を達成したのは、金石さんが小学3年生のときでした。日本中が注目していた記録を、身内として見ていたことになります。
もっとも、実家そのものは岐阜の山あいにあり、野球の英才教育を受けられる環境だったわけではありません。設備でも指導者でもなく、「身近に本物がいた」ことが最大の環境だったと言えます。
正月の道路でのキャッチボール
その親族との関係を象徴する場面が、正月に起きています。
小学5、6年生の頃、名古屋にある金田家の本家に親族が集まりました。集まった甥にあたる子どもは10人ほど。
その全員が家の前の道路に並ばされ、一人ずつ伯父とキャッチボールをすることになりました。
いわば新年の品定めです。そして順番が回ってきた金石さんは、こう言われます。「おまえは野球をやれ!」。
10人の中から選ばれた形でした。本人は後年、この日のキャッチボールを夢のような時間だったと振り返っています。
伯父が亡くなったときには「お前は野球をやれ、と言われて…」と、この言葉を挙げて悼んでいます。実家と野球をつないだ一言が、生涯の分かれ道だったということでしょう。
金石昭人が実家を出てから歩んだ道
ここからは、白川町を離れてからの歩みです。
- PL学園でのヒョロヒョロ時代
- 一球も投げずにプロ入り
- 初勝利まで7年かかった
- 31歳でのトレード志願
- 解説と飲食店経営の現在
- 金石昭人の実家についてまとめ
PL学園でのヒョロヒョロ時代
中学を出た金石さんは、大阪のPL学園高校へ進みます。
ただし、入学時点で戦力だったわけではありません。「身長は190cmありましたが体重は70kgもなくて、ヒョロヒョロ」だったと語っています。
身長だけが先に伸びた状態です。当然、球威も安定感もありません。役割は「グラウンド整備とバッティングピッチャー」でした。
全国から選手が集まる強豪校で、裏方に近い立場から始まったことになります。岐阜の公立中学から来た長身の少年にとって、環境の差は相当なものだったはずです。
それでも3年生の夏には、控え投手としてベンチ入りを果たしました。
一球も投げずにプロ入り
そして1978年、PL学園は夏の甲子園で優勝します。
終盤の粘りで勝ち上がったことから「逆転のPL」と呼ばれたチームでした。決勝では高知商を破り、全国の頂点に立っています。
この優勝は、PL学園にとって夏の甲子園初制覇でした。以後、同校は高校野球の代表的な強豪として名前が挙がり続けることになります。その最初の優勝メンバーに、岐阜の公立中学から来た長身投手が名を連ねていたわけです。
ところが金石さんは、この大会で1球も投げていません。
2番手投手としてベンチには入っていましたが、登板機会は訪れませんでした。本人は「甲子園で1球も投げていないのにプロ入りした」珍しい投手だと振り返っています。
プロ入りの形も特殊でした。ドラフト指名ではなく、同年オフに広島東洋カープへドラフト外で入団しています。この入団には伯父と叔父の口添えがあったと、本人がのちに述べています。
実績ではなく、体格と血筋と将来性で拾われた入団だったということです。ここから、長い下積みが始まります。
初勝利まで7年かかった
入団した広島は、当時「投手王国」と呼ばれたチームでした。
本人の言葉を借りれば「1軍に上がれた一人と、その年限りでクビになる一人は紙一重」という世界です。
一軍初登板はプロ4年目の1982年。初勝利はさらに遅く、7年目の1985年でした。入団から3年間は一軍登板がゼロだったことになります。
この期間に辞めていてもおかしくありません。実際、同期や後輩が次々にユニフォームを脱いでいく中での下積みでした。
本人は当時を振り返って、クビになったチームメイトのその後を気にしたこともなかったと語っています。生き残ることに精一杯だった、という意味でしょう。年俸1億円をもらう立場になってからは「怖いものなし」だったとも認めています。
1985年に一軍へ定着してからは、リリーフとして存在感を出していきます。ただ、そこからさらに大きな決断をすることになります。
31歳でのトレード志願
キャリアの転機は、30代に入ってから訪れました。
31歳のとき、金石さんは自らトレードを志願します。
1991年オフ、津野浩さんとの交換トレードで日本ハムファイターズへ移籍しました。ベテランの域に入ってからの環境変更です。
結果はすぐに出ました。移籍1年目の1992年に14勝を挙げ、先発として復活。翌1993年には最優秀バッテリー賞も受賞しています。
この転身ぶりは「サラリーマンの人事異動のお手本」と評されました。移籍で生き返る選手の代表例として、今も名前が挙がります。
その後1998年に巨人へ移り、同年10月1日に現役引退を表明。通算329試合で72勝61敗80セーブ、防御率3.38という数字を残しました。
解説と飲食店経営の現在
ユニフォームを脱いだ後も、この人は止まりませんでした。
1999年からテレビ東京の野球解説者となり、その後もテレビ・ラジオ・新聞で解説を続けています。
それと並行して始めたのが飲食店の経営です。都内で寿司店と鉄板焼き店を営んでおり、開店から25年が経っても客足は途絶えていないと語られています。
現役時代は毎日が外食で「寿司、寿司、焼肉」というローテーションだったそうです。その舌が、そのままセカンドキャリアの下地になったのは面白いところです。
現役時代から色紙に書いていた言葉は「大い成る心」。本人は「思えばこの言葉が、僕のセカンドキャリアを作ってくれたような気がしています」と振り返っています。
店は妻の陣内貴美子さんと一緒に営んでいるものとして紹介されています。岐阜の実家を出た少年が、東京で家庭と店を持つまでの道のりでした。
金石昭人の実家についてまとめ
ここまでの内容を整理します。
- 実家があるのは岐阜県加茂郡白川町。白川茶で知られる山あいの町
- 白川町立大山小学校ではソフトボール程度で、軟式野球は白川中学校から始めた
- 白川中の体育大会で出した走り高跳びの記録は、その後も破られていないとされる
- 母方の伯父が金田正一さん、叔父が金田留広さん。3人合わせて通算600勝の野球一家
- 小学5、6年の正月、名古屋の本家で甥10人が並びキャッチボール。そこで「おまえは野球をやれ!」と言われた
- PL学園では入学時190cm・70kg未満で、グラウンド整備とバッティングピッチャーから始まった
- 1978年夏の甲子園で優勝したが登板はなく、同年オフに広島へドラフト外入団
- 一軍初登板は4年目、初勝利は7年目。31歳でトレードを志願し日本ハムで14勝を挙げた
- 現在は野球解説者として活動しながら、都内で飲食店を営んでいる
実家の場所を調べると、出てくるのは岐阜の小さな町の名前だけです。ただ、その家には400勝投手の血縁があり、正月には道路でキャッチボールが行われていました。
設備でも指導でもなく、身近な一人の言葉が進路を決めた。実家について分かることの中で、いちばん大きいのはその一点だと思います。

